してはいけないことは何故してはいけないのか?

してはいけないことは何故してはいけないのでしょうか?
法律だから?マナーだから?常識だから?
では何故それを守らないといけないのでしょうか?
人間が勝手に決めてきたことを何故それに従い生きているのでしょうか?

そしてそれに従わなければ場合によっては拘束され、更には死刑にまで処せられます。
おかしいと思うのは同じ事柄でも国によっては違法なものと合法なものがありますよね。
人としてやってはいけないことの定義が国によって違う、地域によって違う、町によって違うって少しおかしいと思いませんか?
まあ、国民性というものがあるのでしょうがない部分もありますが、日を追うごとにどんどんと人間が縛られてきています。
日本でも条例はその地域によって違い、その地域だけやってはいけないことがあります、こうなってくるとただ単に個人的な価値観を押し付けているだけのことのように思えます。
また死刑がある国とない国がありますよね、これは究極ですが、どの地域で犯罪をしたかによって運命が変わってしまうなんてあっていいものでしょうか。

そもそも法律やマナーというものは自分自身を守るために作られてきたものなんですよね。
道徳観でいえば宗教の教えもそうです。

してはいけないこととは、それをしてしまったら他人に迷惑がかかるから、傷つく人が出るからということが前提です。
その中でも他人に怪我を負わしたり大きな損害を与えることをしたらその罪は大きくなります。
強盗、強姦、殺人等の凶悪事件はなくなることはありませんが、これらが悪とされているのは全員が安心して生活できなくなるからなんですよね。
そんな人がたくさんいたら精神健康上にも悪いことですから、人間社会で生活するうえで法律は必要なんです。
他人に迷惑がかかる行為の一部を犯罪としていますが、結局は自分自身を守るためなんです。

でもこれって地球を支配している人間だからできることで、他の動物達からしたら人間は残虐で鬼畜だとしか思わないでしょうね。
命は平等なはずなのに動物や植物の命を絶つことに対してはそれ相応の正当性という詭弁がついて回ります。
とりあえず人間だけは子孫を残し、生き延びればそれでいい的な発想ですよね。
人が動物を殺した場合、動物が人を殺した場合、全く見方が違いますよね、罪悪と正義の区別も、全て人間が決めています。
ただ、それを否定するわけではなく、それによって幸福な人生を送れているというのは事実です。
しかし罪悪感を持とうとしないというか正当化しているところが少し引っかかります。

だいぶ話がそれました(笑)

してはいけないこと。
これは人間が快適に生活を送るためにみんなが守っていかなければならないことなんですよね。
それに反すると嫌な思いをする人間が出てくる、傷つく人間が出てくる、ということは自分もそうなることにつながるんです。
そういうことがないように、幸せになる人間を増やすために決められたこと。
法律、道徳、マナーというのはそういうところからきているんだと思います。

何故してはいけないことをしちゃダメなのかは、他人を不快な気持ちをさせてしまうとその人はもちろん自分も不快な気持ちになり、他人も自分も傷ついてしまうことにつながるからだと私は解釈しています。
そして他人を傷つける度合いによって法律という枠で裁かれ、それを抑止しているのではないでしょうか。

犯罪まで行かずもっと軽いことでいうと、
道徳的には、例えば朝の挨拶で「おはよう!」って元気に声をかけられたら嬉しいですよね。
仮に自分が声をかけたとして、でも相手が無言だと悲しいし気分が悪いですよね。
「おはよう!」ていう挨拶一つでお互い今日一日いい気分で過ごせる気がしますよね。
これは法律でも義務ではないから嬉しいんです、そして偽善ではなく本心ですることが大事です。
そういう気持ちを持ってみんなが接していればもっと快適な日常を送れると思います。
すぐに「相手が挨拶しないから私もしない」
となりますが、そうではなく自分からするということが大事です。
そういう考えの人は悪いことしても「自分の方がまだましだからいい」
とか「誰誰もしているからいい」
とか他人と比較して変な正当性を主張します。
でも自分は自分、他人は関係なく自分が周りに幸福を与えるという考えでないとみんなが幸せになることはありません。
これは法律ではなく決まりごとではありませんが、法律を守る以前にそういう気持ちになれたらそもそも細かい法律なんて必要ないんですけどね。
でも私は法律の枠に因われることなく、他人に対して少しでも不快な気分にさせたのならば、それはお仕置きの対象になるんです。

法律的にはしてはいけないことって毎日毎日増えているんですよね、どんどん法律ができていくということはどんどんしてはいけないことが増えているってことです。
現代は幸福すぎるので他の何かを欲するのでしょうか?
とても他人に敏感になり、気を使い、どんどんと住みにくい世の中になっていく気がします。
法律にがんじがらめになり、他人の目を気にしすぎ、精神的に疲れてしまいそうです。
偽善で取り繕って本音で話ができる人間が少なくなっていくような気もします。
人間は機械ではありません、心と心でぶつかってそれが人間です。
本音を出したら嫌われるとか関わったら面倒くさいことになるとか、そういう雑念がいっぱいでコミュニケーションをとる力がなくなってきているようにも思えます。
だから自分に自信がなく、誰かに見てほしくて、でも他人には無関心で甘えた考え。
自分の理想と現実のギャップがありすぎて絶えず不安を抱えている若者が多いのではないでしょうか。
これも人間が機械のようになってしまっているので愛情を与えられず、愛情を注がれていない人間は理想だけが膨らみ愛情に飢えてしまうのでしょう。
法律で縛られてくると人間らしさがどんどん消えていくような気がします。
しかし幸福な世の中になるにつれて歪んだ犯罪も増えてくるのでそれはしょうがないことなのでしょう。
他人を不快にすることはしてはいけないことなんです、そのことを個々の心の中においておけば法律だらけのなかに生きる機械人間にはならないでいられるような気がします。

今はネット時代、物を買うにも取引するにも、銀行や証券も、そしてマネーゲームも全て機械です。
どんどんと心をなくしていくような気がしませんか。
いけないことははっきりといけないといってあげられる世の中は必要です。
そういうところでも心の温かみを感じることができるでしょう。
いけないよといっても屁理屈ばかりいって聞く耳持たない人はたくさんいます、
「何でだめなの?」と聞かれたら、いろいろと説明はしてみるものの、結局は「他人に迷惑がかかる、そして自分もされたらいやなことだから」
という言葉でしか説明ができませんよね。
でも、その通りなんですよね、とにかく他人が不快になるような行為だからしてはいけないんです。

これ以上説明できない私も説得力がないのでしょうが、そうなったらお仕置きで分かってもうらしかありません。

「そんなことも理解できない悪い子はお尻ペンだよ!」

お仕置きをすれば嫌でも「ごめんなさい、わかったよ」といえるでしょう。
その返事がお仕置き逃れの口だけでもしょうがないですが、そうであればお仕置きは理解できるまで続くだけです、お尻のために理解するでしょうね(笑)

他人を不快にさせて傷つけてしまったら必ず自分に返ってきます。
自分が傷つくことになります、もっと自分を大切に、自分のためにも他人を大切にしてあげれたらと思います。
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京介(きょうすけ)

Author:京介(きょうすけ)
初めまして、京介(きょうすけ)といいます。

スパといわれている世界ではいわゆるディシプリン派の”カー”という存在らしいです。
そしてお説教やお仕置きは私の日常です。
私の普段の言動や行動がスパでいう”カー”というものに似ているだけなので、スパという”作られた世界”の住人である意識は全くないんです。
それくらい日常的にお説教やお仕置きをしているってことです(笑)

お説教や相手との対話については私の中では”心の安定でありカウンセリング的な心のケア”と認識しており、お仕置きの中で一番重要視していることです。
相手の理由や言い分をしっかりと聞いた上で、客観的に「何故直さなければならないか」という説明をし、納得をさせる事がお説教と位置づけており、お仕置き後のアフターフォローとしての対話を含め、イメージ的にはカウンセリングのようなものです。
なので私はこじつけの理由ではなくリアルな理由でしかお説教やお仕置きはしません。
そしてお説教とお仕置きはセットでなければ意味はなく、更にお仕置き後のアフターケアがないと成立しません。
私の場合のお仕置き基準は「他人を不快にする行為、約束を破る行為」について特に厳しく接しています。

お仕置きでの関係性は親と子供的なものです、それをコンセプトに全てが成り立っています。
つまり相手とはある意味対等な立場であり、よって敬語を使わせないようにしますし、私が命令口調で話したりすることもありません。
また、教師と生徒的のような上下関係の立場から物事を矯正するということも好みません。
このような上下関係のあるお仕置きは恐怖心により支配しているものでもあり、自尊心を傷つける場合もあるので親子間での愛情のあるお仕置きとは全く別物と認識しています。
こういう考えなので親子的でもあり友人的な立場という立ち位置が一番しっくりきます。

ここに至るまで、過去私はSMという世界を体験しました、SMの世界といったら大げさなのですが、精神的な心の部分を追求するために足を踏み入れました。
”人間の心や本質”を追求したくて入り込んだのですが、私の求めているものへの違和感がずっとあり、その違和感を解消しようと模索した結果、スパといわれている世界にたどり着いたのです。
その違和感を簡単にいうと、性的なお仕置きや理不尽なお仕置きがまかり通っているということです。
もちろんプレイ的には面白みはあるので、性欲のはけ口としてはいいのかもしれませんが、性欲以外の部分を満たすためにはスパの世界が心地よかったんですね。
スパの”カー”からSMの”S”に移行する人ってたくさんいますが、私はその逆バージョンみたいな感じなんですね(笑)
SMの精神的な部分の究極を追求した結果、スパといわれている世界にたどり着いたので、過去の体験があるからこそ今の自分がいるんだと思っています。

このブログを書き始めることになったきっかけですが、それはお仕置きに興味がある若い女性が結構いる事を知ったからです。
真面目に苦しんでいる人達を私の言葉により一人でも救ってあげれたらなという気持ちで書いていこうと思いました。

こういう世界に入り込んでしまう人はそれぞれの心の闇を抱えているものです、その闇を全て吐き出すことは難しいですが、このブログを通じて自分の居場所を見つけ、少しでも心の安らぎを感じて欲しいです。
そういった精神的な部分を私は一番大切にしています。

これだけは理解した上で私のブログをお読みください。
私のしているお仕置きとSM的なことは独自の価値観ではっきりと区分けしてあります。
ここでのお仕置きとは性的要素を一切含まないものであり、同じお仕置きでも性的要素が少しでも含めばそれはSM的として解釈しています。
独自の価値観で表現していますのでそこはご了承の上お読みください。

人それぞれ求めているものは違います、そして最初の入り口は頭の中のモヤモヤ感や欲求、焦燥感等を解消することからです。
大事な事は、それらを解消する事によって新しい何かが生まれるかもしれないということです。
そして新しい何かを見つけなければ、そこからは何も生まれません。

お仕置きに憧れを持つことは、叱られる愛情や甘える事を求めているからともいえます。
ドキドキしたりするのは、自分の求めていた愛情が受けられる、甘えられるという妄想で、それが無意識に反応してしまうだけです。
全ては無意識で起こる深層心理下での心の動きなんですね。

そのように思える人は決して叩かれたいだけではないはずです。
なのでスパに対する概念は捨てて、客観的に自己を見つめることがとても大切なことだと思うんです。


こんな感じの私ですが、様々な人達を見てきていますのでどんな内容でも私が引いてしまうことはありません。
また、私は概念や雑念に捉われません、客観的に受け止めますので共感はしますが、同情はしないです。
悩みや相談がありましたら気軽にどうぞ、どのような立場の方でも個人情報を漏らすことは決してありませんので安心してください。


自分の満たされない思い、満たされたい思いをお仕置きを通じて体験してみましょう。
体験は若ければ若いほどいいです、どちらにしても歳を取ったら卒業しなければならない必要性が出てきます、いつまでもパートナーがいるわけではありませんからそうなると心が苦しくなるだけですからね。
若いうちに体験しておくと卒業もしやすいですからそういう意味でも急ぎましょう^^


念のため、キー、カー等のスパ用語が分からない方はこちらを参照ください(笑)
これがないと意味不明となる場合がありますからね(汗)初心者さんのためにも紹介しておきます^^;

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