子供の躾け、子育て

子供を教育し躾をし、立派な人間に育てたいというのは誰しも思う親の気持ちだと思います。
それを実現する為には自分が育てられた環境を元に基準を設けて子供と接している人は多いと思います。
また、子育ての本、お受験の本などたくさん出ていますよね、それを参考にしている親達も多いと思います。
それだけ教育熱心、子育てに一生懸命なんですよね。

でも、私が思うに本の知識はなかなか行動にはうつせないと思うんですよね、というよりもそもそも根底にある子育ての心理的要因を理解するには普通にマニュアルを読んでいては駄目なんですね。

私は子育ては心理学であり最も難しい分野だと思っています。
というよりもそのように考えて取り組まないと子供を教育することは出来ないと思っています。
本を参考にするのは大いに結構ですが、その一つ一つの言葉にはとても深い意味が必ず隠されています。
それを言葉として認識するのではなく、心理学的に読み解かなければあまり意味がないんですね。

子育ての本というものはそもそもは心理学の本であり、その深層心理の部分を理解しないと役に立ちません。
意味を理解しないで本のまま行動しても、子供には真意は伝わりませんし応用が利きません。
だから本のマニュアルを覚えるのは、それについての心理を根底に考えた上でないと意味がないのではないかと思います。

人の気持ちを理解することは心理を読み解くことと同じことです。
自分の価値観で「この子はこう思っているはず」と決め付けるのはとても危険なことであり、親としては様々な要素を想定する必要があります。
子供に関する一つの問題に対して、子供が何でこういうことをしてしまったのか、何を考えているのかということを何通りも考え、それぞれに対応できるようにしておくことが大切です。

悪いことをしたとしても、
「分かっていて悪いことをしたのか、構ってほしかったのか、むしゃくしゃしてやったのか、塾や学校のストレスがたまっていたのか、つい軽い気持ちでしたのか、悪気はなかったのか、虐めにあっているのか、精神的に追い詰められているのか、何かの信号なのか」等々
それらを総合して考える必要があります。

その状況により接し方や叱り方は違うわけであって、だからこそ一方的な個人の価値観だったり感情的に怒るということは絶対にやってはいけない事なんですね。
ただ、冷静にわざと感情的にというのは躾の手段ということもあります。
本の内容はこれらのことが根底にあって初めて生かされるバイブルだと思ったほうがいいと思います。

実際子育てっていうのは物凄く難しいことです。
それはいくら心理学を駆使したとしても自分の思うとおりの人間にはならないからです。
自分の方針と違う方向にいってしまったらがっかりする人もいるのでしょうが、それは親の理想でありエゴでしかないと思うんですよね。

本当のところは自分の子供は健康で幸せであればそれだけでいいと思うのですが、そこに親の価値観が入り込み複雑になっていってしまうんです。
だから親としては子供の未来にいろいろな可能性を見出してあげるという考えの下に教育をしていくことこそが大事だと思います。
しっかりとした躾も、お受験も、習い事も、塾も、全て強制だとしても、将来の可能性が広がる手段であると考えているのであればいいと思うんです。

でもそれで期待のしすぎはいけません。
いろいろなことを体験させて可能性を広げている、選択肢をたくさん与えているだけという考えを崩してはいけません。
後は子供の人生なのだから、それ以上は望まないことが理想だと思います。
まぁこれは出来そうでなかなか出来ないことですけどね。

過度な期待をすると子供は親の期待のために生きる人生になってしまいがちで、親の期待に沿うことが自分の幸せと感じるようになることがあります。
そうなると挫折にとても弱くなったり、期待を裏切ることは許されないというストレスで精神的に歪む原因となることもあります。
親としては土台造りをしてあげている程度に思っていたほうが自分も子供も気が楽に人生を生きれるはずです。

私は活動で大人に対してお尻ペンのお仕置きをして躾のようなことをしていますが、そういう大人達を見ていて幼少期の躾や教育がとても重要なんだなってとても感じるんです。
子供の心理は子供に聞いてもわかりませんが、その子供が大人になれば幼少期の心理をしっかりと説明してくれます。

そのことにより、親の教育の仕方が子供心にどのように感じていたのか、どのような大人に育ってしまうのかがわかり、それを私は聞いていろいろな観点から分析すると、親の教育によって子供がどう成長したかがわかるんです。

叱るだけでも駄目、叱らないのも駄目、叩くだけも駄目、叩かないのも駄目。
叱らない、叩かないのはなぜ駄目かというと、そういう教育だと子供はないものねだりで叩かれたい、叱られたいと少なからず思ってしまうんですよね。

友達の話や目撃した光景、またテレビやアニメで叱っているのを見て、そこに愛情というものを感じ求めてしまう部分が少なからず出てきます。
要はその部分の小さな欲求が膨らみ、叱られる愛情というものを求めてしまい、それが成長するにあたりより大きくなってしまうからです。
だからバランスのよい愛情のかけ方が必要なんです。

叩くというのは危険な行為なのでここでいう叩くというのはお尻ペンのことです、お尻叩きですね。
それ以外の場所は感情的に手を出す行為であってお仕置きではなく虐待的行為だと私は思っています。
お尻を叩くといっても”子供”の場合は手加減をして軽めで十分だと思います。

で、叱られたり叩かれたりされたことがない子供ってそういう場面を目撃するとうらやましく思ってしまうことがあるんですよね。
大人に真剣に叱られている、大人が真剣に向き合ってくれている、そしてそこには自分には向けられなかった大きな愛情があると感じて、だからこそ、その未知な部分を追求し、満たされない部分を補いたくなるんです。

実際叱られたり叩かれている張本人はそんなこと思っているはずもなく、嫌だし、むかつくし、親なんていらないなんて思ったりもするのですが、見ている人は自分がされたことがないからそこに愛情を感じてしまうことがあるんです。

普通の環境でバランスよく育てられた子供やお仕置きを受けてきた子供は、叩かれるのは嫌なことっていう意識があるので、自分の子供には叩かないという考えになり、今それが増えているんですね。
でも虐待的な体罰ではなく、愛情のあるお仕置きの場合はそれがトラウマになっているわけでもないし、親を嫌うなんてこともないし、むしろ親が好きだし、愛情も感じていたしという子が多いんですよね。
間違っていることを正されていたわけなので大人になればお仕置きの意味が理解できるようになり、自分のためであり、愛情からだと気がつき、より親が好きになったりもします。

でも叱られたり叩かれたりの体験をしていない人は、悪戯をしてこっぴどく叱られている人を見たり、アニメやテレビでお仕置きシーンがあるとそこに自分には与えられていない愛情や魅力を感じ、ドキドキするようになってしまうことがあるんです。
いい子でいる子は叱られたいと思っても悪いことや悪戯ができないでいて、勇気を振り絞って些細な悪戯をしたとしても普段いい子でいるからということで大人はみて見ぬ振りをして叱らないことが殆どです。

だからこそいい子ちゃんは特に”お仕置き”に目覚めることが多いのでしょうね。
今は体罰である躾やお仕置きは否定され、いけないこととして世界中に広がっていますが、私はお尻叩きのお仕置きについては愛情表現の一つだと考えています。
それは実際の成長した大人を見てそう思うようになったんです。

今は叱られてきて、お仕置きや体罰を受けてきた子供が大人になり、子供を産んでいます。
過去に嫌な思いをしたからこそ体罰はなくそうと世界中に広めています。
そして叱られたり、お仕置きを経験しない子供たちが今はもう成人になっています、ゆとり世代ですね。

でもその子供たちの一部はとてもとても愛情に飢えていて、その愛情というものは大人に真剣に向き合ってもらうことであり、間違っていることをしっかりと叱られることなんですよね。
だから今まで与えられなかった愛情をお仕置きという形で受け、心の隙間を埋めているというのが現状にあります。
子供のころに甘えられなかった部分を体験したい、そして満たされたいと思ってしまうんです。
人間ならば誰しも持っている甘えたい欲求なんですよね。

そういう子たちがスパ(お仕置き)の世界に入り込むと、本来のシンプルなお仕置きとは違う、作られたスパの世界でのお仕置きの価値観を無意識に植え付けられてしまいます。
昔から興味のあったお仕置きをネットで検索してみるとそこには大人のお仕置きである”スパ”しかないわけでその世界に染まるしか方法がないからなんですね。
だから私は、そういう作られた世界に洗脳され、依存していってしまう子たちに、本来のシンプルなお仕置きを思い出してほしいという気持ちでこのブログを書き、サイトでも発信しているんです。

お仕置きの世界に入り込むということは一部の欲求が満たされなかったから起きる現象でもあり、それは人間はないものねだりだからだと思います。
だから均等に愛情を与えることが大切なのですが、そのサジ加減は個々によって違い、とても難しいことです。
ただそういうことも踏まえて、均等な愛情を与える意識を持って子供と接していれば今とは違う新しい子供との関係が築けるかもしれません。

子供のころのいい子はいい子ほど問題があると思います。
いい子だからよしとするのではなく、子供がいい子でいるのであればそれこそ問題だと思って子供を真剣に見てあげることが大切です。
親に気を使っていい子でいる子もいますし、親の機嫌をとるためにいい子でいる子もいます。

そしてそういう子は感情を上手く表現できなくなったり、自分で判断する能力も低くなりがちなので、自分で行動できるような試練を与えることが大事だと思います。
たまに悪いことをするようになったらそれは喜ぶべきことでありますが、そこは悪いことは悪いときっちりと叱らなければなりません。
それを嫌悪するのではなく、子供の成長という面で安心するという気持ちを持てば苦にならないでしょう。

結局は子育てに正解はないんですよね、その個人の性格もあり、学校の環境もあり、出会った人の影響もあり、親はただ子供の人生のサポート役でしかなく、それを十分に理解して接することこそが子供の為であり、その事を理解して教育、躾、子育てをしていくのが自然だと思います。

あまり周りと比較せず、自分の思い通りになるなんて考えず、一人の個性のある人間として尊重してあげることが大事です。
頑張りすぎず、肩の力を抜いて、何のために子供を教育しているのか、子供ではなく、まず自分を見つめなおすことが一番大切なのかもしれません。

お仕置き依存症?

日常会話やテレビなどでお尻ペンとかお仕置きとか悪い子とか耳にするとすぐにお仕置きモードになってしまう私ですが、
100円ショップやホームセンターに行くとお仕置きに使えそうなものを必ず物色してしまいます^^;

家庭的なお仕置きに憧れを持つ子はよく家庭にあるようなお仕置き道具を好みますよね。
まぁ私的にはスリッパは無しですけど、おそらくキーさんもスリッパは好まないような気がします。
日本の家庭にあるような道具というと、布団叩き、物差し、定規、木ブラシ、靴ベラ、といったところでしょうか。

で、先日渋谷にある和食の割烹料理的なお店に招待されたときのことです。
初めて行ったお店だったのですが、混んでいて少し待たされていたんですね。
靴を脱いであがるような店だったのですが、ちょうどそこに靴べらがあって、その靴べらがどう見てもお尻叩き用にしか見えないくらいよく出来たおしゃれな造りだったんですよね。

逆にいうと靴べらには見えない、お仕置き用にしか見えない竹製の作りでした。
とても長い靴ベラで長さは80センチほどあったかと思います。
今度こういう靴ベラを探してお仕置き用として持っておこうと心に決めた瞬間でもありました(笑)

で、そのお店には二人で行ったのですが、一緒にいたのはキーさんでした。
お仕置きをする為に会ったのではなく、お仕置きのことも含めお話しをする為にその日初めて会いました。
お昼に会い、食事をして他の場所でいろいろとお話をし、夕方そのお店に行くまでには結構緊張もほぐれていた感じでした。

私はその靴べらを手にとってニヤニヤとしながらキーさんを見つめたのですが、これが無反応なんですね。
絶対に反応しているはずなのに平静を装っているんだと思って、その靴べらでお尻を叩く振りをしたんですね。
でも表情を変えず、逆に少し怒った様な感じで「やめて」といわれてしまいました(汗)

キーさんっていい子で真面目な子が多いので、人前でこんなことあり得ないんでしょうね^^;
「私は全く興味なんてありません、なんですかそれは」
みたいな感じでいるのが見え見えだったので、つい軽く叩いてしまいました(汗)

その後も待たされている間、私はその芸術性のある靴べらを賞賛し、一生懸命にキーさんに語っていたのですが、そのキーさんは首をかしげ、あまりピンときていない”フリ”をしていましたね^^;
会話が聞こえてしまうという不安とかあったのでしょうか。

私の中では絶対にドキドキしているなと決め付けていていたんですけどね。
本人には本当のところは確認していませんが。
平静を装っている姿が少し可愛く見えました。

その後、食事をしながらも、お仕置き関連のお話に花が咲き・・・。
お仕置き話しに夢中になるとつい熱く語って周りに人がいることを忘れてしまうんですよね^^;
今度そのキーさんに本当のところはどう思っていたのか聞いてみることにします^^


(注)現在は活動で会った方との予約時間外のお付き合いは一切していません。

パートナー=恋人=×?

お仕置きのパートナーって、どういう関係ですか?

女性の中には「お仕置きのパートナー=恋人」という形を望む人がいます。
いくら性的なことがなくても、密室に入り、お尻を叩かれる。
そして体に触れ、甘える行為をするわけですから女性的に考えれば一番は恋人がいいと考えるのかもしれません。
でも実際は恋人にカミングアウトが出来ずに彼氏とは別のパートナーが存在しているという人もたくさんいて、結果罪悪感で悩んでいる人もいます。

彼氏にカミングアウトをしてそれを受け入れてもらいパートナーとなるケースはレアですが、やっぱり長続きしないことが多いみたいですし、ほとんどがSMと捉えてしまい、ラブスパのようなエッチな感じになったりしてしまうようです。
まぁ現実問題カミングアウトなんてそんな勇気は出ないでしょう^^;
まぁ掲示板で会ってパートナーになり、その後彼氏彼女の関係になる人もいますが、それでも恋愛関係は続いても、お仕置き関係は長続きしないようです。

で、お仕置きに憧れている人は理想は恋人だという人がいますが、本当に理想なのかなって私は思ってしまいます。
それは世間体を気にしてのことで、他の男性と触れあうと自分がいけないことをしているという気持ちの表れから来ているのではないかと感じます。

私が思うに、恋人となって恋愛をしてしまったら果たして冷静に叱ることはできるのか、きちんと素直に叱られることができるのかという部分で疑問が生じてしまいます。
それは恋愛の愛情は恋愛の範囲での愛情であって、お仕置きの愛情はそれをはるかに越えたもっと広い愛情であると思うからです。

親が子供に対する愛情と同じで、子供が悪いことをしても、浮気をしても、犯罪を犯しても、そして裏切ったとしても、それは広い愛情の中の出来事であり、許せない行為なんていう次元の話ではありません。
むしろ、全て包み込んでしまう、とっても広く大きな愛情なんです。
そう、無償の愛そのものなんですね。

しかし恋人同士であれば浮気をすれば裏切りだし、それを根に持ち信頼が出来なくなり、破綻するということが多くありますよね。
またお説教をしても「それって価値観の押し付け?」「自分の都合のいいことばかり」「そこはいわれたくない」と対等すぎる関係だからこそ不平不満が出てくることもあります。

でもパートナーが恋人でなければ、同じようなことを思ったとしても冷静に受け止められるという部分があると思います。
パートナーが恋人の場合、恋人に嫌われるようなことは隠したいし嘘をついたりするのが普通ですよね。
でもそんなことをしていたらいつかは他の人に嘘をついている自分をお仕置きして欲しいとなってしまうでしょう。
ま、実際そういう子は多いんですけどね。

また違った見方では、パートナーから恋人へと進展した場合ですが、
お仕置きをする側であるからということで、自分を厳しく律し、冷静に大人な対応をするように頑張って接しているという面はあると思います。
それって本当の姿ではなく、お仕置きの関係だからそういう顔しか見せていない事が多いと思います。
まぁそもそもだらしなかったり、品が無かったり、マナーが守れないような人は論外ですけど^^;

実際の親子関係もそうですよね子供の前では親でなければならず本当の自分を隠して躾をする人が殆どです。
周りにいる適当な人たちでもどんな人でも子供の前では親であり躾をしているんです。

でもお仕置き関係の場合は相手は他人である人間です。
キーさんは相手の姿が本当の姿として認識するので尊敬を通じ愛を感じ、好きになってしまうことがあります。
でも恋人関係になってしまいお互いを主張し始めるとその隠された本性というのがチラホラ出てきてしまうものです。

カーさん側から相手を見ると、相手は真面目で不器用な人が多いのと、自分から演出することはしないので、人間性を理解でき、それは恋人になってからも変わりないものとなるでしょう。
でも実際にお互いを理解できるのは恋人となってカーさん側の自我がでて、それからなんだと思います。

そうなってくるとそもそもの尊敬という部分が薄れ、恋人としてもお仕置きパートナーとしても違和感がでて、その一つの不安要素が更なる不安を煽り、上手くいかなくなることにつながっていくんだと思います。
そもそも恋人に求めるものとお仕置きに求めるものが同じだったらそれは理想ですが、それは難しく本当の心の中では求めているものが微妙に違っているのだと思います。

複雑なケースでは恋人を望み、キーを望み、Mも望み、主従も望む。
このような人も実際にいるんですね。
実際私の知っているカップルは恋人兼お仕置きパートナーなのですが、主従にも興味があるという女性です。
主従への興味は若い頃のトラウマから来ているような感じなのですが、まだしっかりとした主従の経験はなく妄想の世界での憧れであり、実際体験したらどうなるかは分からないといった感じです。

私は、恋人に求めるものとお仕置きに求めるものって心の底では違うと思うんですね。
お仕置きする側というのは相手に対して、駄目なものはどんな些細なことでも駄目って叱ることが必要で、そのことによって相手は愛情を感じます。

しかし彼氏に対しては
「駄目なことも含めて受け入れてほしい」
「少しは甘えさせてほしい」
みたいな感覚が少なからず発生してしまいます。
あれも駄目、これも駄目では、恋人として安らぎを求めている彼氏にも絶えず緊張していなくてはならないからです。

”お仕置きのパートナー”には駄目なものは駄目って叱ってほしい、甘えたことをいっても叱られたり構ってほしいと願います。
全てを大きな愛情を持って接しているので喧嘩になることもなく、そのようなこともサラリと交わしてしまう。
嫌な自分もはっきりと駄目だよって教えてくれる厳しさに愛情を感じるんでしょう。

”彼氏”にはもっと心のそこから愛情を感じたいから安らぎの場所であってほしい、喧嘩も必要だけど細かいことを言われたくないときもあって、ちょっとした悪さも見逃してくれる優しさを求めてしまうものです。

”主従”では支配と服従の関係を望み、人によっては自分をただの道具として扱ってほしいと思ったり、愛されたいと願ったり、奴隷として扱ってほしいと思ったr、ペット扱いしてほしいとか様々な性癖がありますね。
支配されることで愛情を感じる人も多く、相手が喜んでくれる姿を見て自分が満たされるという人もいます。

このように簡単に書きましたが、結局お仕置きパートナーでも彼氏でもご主人様でも、その一つ一つに求めているものってやっぱり違うんですよね。
そうなってくるとどんなに要求したとしてもそのパートナーの行動が物足りなくなってきます。

優しくされたらなんで叱ってくれないの?って思う。
叱ったら気持ちを分かってくれていないなって思う。
自由にさせたらもっと支配してほしいと思う。
支配をするともっと自由にさせてと思う。

これら全てを均等に求めてしまうと全ての事柄に違和感が生じてどれに対しても物足りなく感じてしまうでしょう。


結局は何をより多く求めているかなんだと思います。
その方向性を見極めて考えれば物足りない部分も自分の中で処理が出来るはずです。
全ての欲求を満たすことは一人のパートナーでは難しいでしょう。
まぁ欲求があるのであればどれもたくさん経験してみて、自分が一番求めているものを探すのもいいでしょう。

まぁ全ての欲求が満たされることはありませんが、より多く欲求を満たす方法はあるかもしれません。
それは、恋愛重視で、恋愛を求めてお付き合いすれば、ある程度の満足感が得られるのではないかと思います、何か物足りなくてもスパやSMは”恋愛の一部”であることを認識していれば。

ま、難点もあってそれはスパの時、SMの時、主従の時はそれは”プレイ”であり、多少なりともお遊び的な要素となってしまうんですね、イメージプレイですよね。
スイッチを切り替えてそのようなことをするのですが、やはり人間ですから感情というものがあり100%切り替えるというのは難しいです。

でもそうやって切り替えてパートナーと続いている人はいますし、切り替えたら切り替えたで心から切り替えられる人もいるのかもしれません。
それは人それぞれの楽しみ方でパートナーと話し合い、自分と向き合いながら決めていけばいいことです。
そういう経験をしてみないことには何も見えてきませんからね。

何か物足りないと感じてしまう人はより多くのことを求めすぎなんです。
何が自分にとって一番大切なことなのか、何を失うのが一番つらいことなのか、何が一番幸せに感じるのか。
8割くらいの満足で満足感を得られるように、それで納得できるように心の整理をすることが必要です。
心を満たすことは心の健康上必要なことですが、その中で折り合いを付けていかないと大事なものを失ってしまう原因となってしまうかもしれません。

パートナーが恋人というのは理想ですが、それだけ維持するのは難しいんです。
ただし、お仕置きをする側がそのポイントを握っているので、その手腕次第だと私は思います^^

儀式的なお仕置き

お尻ペンのお仕置きって私の中では儀式的な意味合いが少なからずあります。
その場の感情に流されてするわけではなく、その罪に対していたって冷静にお説教をし、罰を科す。

またお尻ペンのお仕置きは躾として行いますが、反省しているからお仕置きはしなくてはいいのではありません。
悪いことをした代償として、
罪悪感を取り去る為、
責任を取らせる為、
迷惑をかけてしまった相手、傷をつけてしまった相手に対して償いをするため

その為のお仕置きでありお尻ペンなんですね。
様々な要素がありそれに対する責任の取り方である罰がお尻叩きのお仕置きなんです。
そしてそのお仕置きという儀式をすることによって全てが許されるんですね。

だからお仕置きを受ける子がよくお仕置き逃れに言う
「反省しているからお仕置きはいらない」「もう絶対にしないから大丈夫」
なんて言葉は全く意味がないんです、微塵もです。

お仕置き前にお説教をするのは、何でそんなことをしてしまったのか、何が悪かったのか、どうしたら直せるのか、どうしていけないのか、ということを話し、納得の上反省をしてもらう為です。
だからもし仮にそれらがきちんと分かっているのであればお説教はいりません。

子供もある程度の年齢になれば善悪の判断はできます、ましてや私がしているお仕置きの場合は対象が大人です。
なので、すでに自分で理解し、反省し、どのようにすればいいか自分で分かっているのであればお説教なんてものはいらないのかもしれません。

もしお説教がなければどんな雰囲気になるか、イメージを考えてみました^^;

言葉は要りません。
お仕置きの部屋に入り、私は相手を見つめる。
膝をポンと叩くのが合図で、そうすると相手は自らパンツを下ろす。
そして私の膝の上に乗り、スカートをまくり上げてお仕置きの体勢を作り、お仕置きの実行を待つ。
その後、お尻叩きのお仕置きが始まります。

お仕置きを受ける子は痛みにこらえお尻叩きが終わるのを必死に待ちます。
声を出さないように痛みに耐え、罰を受け続けます。
私も一言も言葉は発しません、すでにお説教をするようなことはお互いに理解しているからです。

お仕置き対象者はいつ終わるかも分からないお仕置きを受け続けお尻に痛みを受け続けます。
お尻は真っ赤になり、腫れあがり、でも一向に終わる気配はない。
しばらく苦痛の時がたち、そしてようやくお仕置きが終わり全ての罪が許され、甘えることを許される。

と、このようなシチュエーションだと儀式そのものって感じですよね。
ただやっぱり全て理解して反省していても、しっかりとお説教して再認識させることは必要でこれもコミュニケーションの一つであり、愛情表現の一つなので必要なんですけどね・・・。
儀式となると冷たい雰囲気のお仕置きとなってしまって何か違和感がありますね。

ま、こんな本当に儀式的なお仕置きしてみたい気もしますが、大人のはずである本人は子供以上に子供だから無理でしょうね(笑)

「悪い子はどうされるんだっけ?」
「自分でお尻を出して膝にきなさい、それがお仕置きを受ける態度です」

こうやって優しく言ったとしても抵抗するものなんですよね、そこがまた可愛いのですけど。
無言のお仕置きもしてみたい気持ちがありますが、やっぱり抵抗する子を無理やりお仕置きをするほうが私にとってはあっているのかもしれません^^;

無意味なお仕置き逃れの言い訳

キーさん(お仕置きされる側)って言い訳ばかりしますよね、無駄な抵抗だと分かっていてもくだらない言い訳をします。
まあ、それを言う事によってお仕置きが免除されたらって思うんでしょうけど、でもそれで見逃されちゃったらそれはそれで複雑な気持ちですよね(笑)

お仕置きをされたくないけどされたい、でもされたいと思われたくないし、実際はされたくないけど本当にされないと寂しい、でも痛いのは嫌だ。
みたいな複雑な心境で、心の駆け引きというかそこらへんは微妙な線なのですが、そういう意味合いもあって通常の人よりも言い訳をしてしまうのではないかと感じます。
またその言い訳をきっちりと叱ってほしいという面もあるのかもしれませんね。

キーさんの言い訳として遅刻の例を挙げてみましょう。

電車が遅れた、
体調が悪くて、
急な用事が出来た、
勉強で遅くまで起きていた
等々

まぁ、この程度の理由なら、普通の人であれば正当な理由として許してしまうでしょう。
パートナーでもまあ、そういう理由なら今回は許してあげよう、なんて思う人もいるかもしれませんね。
でも私はどの理由でも完全なるお仕置き対象ですけどね^^;

キーさんは「だからしょうがないでしょ、正当な理由でしょ、悪くないでしょ」なんていいますよね。
また、その言い訳が嘘か本当かはわかる場合もありますが、分からない場合もありますね。
でもその言い訳が嘘であろうが本当であろうが私にはあまり関係ないんです。
そりゃあ、嘘と判明したらお仕置きはハードなものとなりますけどそれはそれでおいておきます。
関係ないというのはその言い訳が本当であろうが嘘であろうがお仕置きをするのは間違いないという意味です。

そう”遅刻”は”遅刻”なんですよね。
"遅刻”は悪いこと、ただそれだけなんです。
どんな理由があろうとも、相手に迷惑をかけているし不快な思いもさせています。
どんなに正当な理由だとしても本人には罪悪感って残っていますよね。

そして殆どの遅刻理由は回避しようと思えば回避できるんです。
先を読む力が不足しているわけで、必ず待ち合わせ時間の5分以上前に到着する癖をつけ、体調管理、スケジュール管理等、心構えさえしっかりとしていれば遅刻なんて殆どありえません。

実際私は遅刻していません、遅刻をしたのはもう記憶がないくらい昔のことです。
電車の遅れだって大雨や台風等の場合はもっと早く待ち合わせ場所に向かうことをするべきだし、通常でも待ち合わせ時間の1,2本前の電車に乗ればいいことなんですよね。
電車が正確に到着するなんて自分の中で決め付けているだけで、実際はそんな決まりごとはありませんから。
時刻表はあくまで予定であって、鉄道会社は乗客と到着時間の契約はしていません。

まあ、本当にどうしようもない理由も実際にありますが、それでも”相手”がいる限り迷惑をかけていることは事実で、自分も悪いことしちゃったなっていう罪悪感を持っているのも事実。
要はそれに対してのお仕置きなんです。

そういう考えが基本なので、私の場合はそのような言い訳をしているのを聞いていると
「面白いこといっているな、可愛いな」
と心の中で思って、心で”ニヤニヤ”しながら、じっくりと言い訳を聞いてあげます。

私との待ち合わせに遅れたような場合、私に対して迷惑をかけた行為を罰するという意味ではなく、こういうことを他人にしてほしくないという思いになるので、当然お仕置きを免除することはありません。

人と人とのコミュニケーションって本当に複雑です、自分を出して自分そのものをぶつけてしまったらそれを不快に思う人間もいます。
それぞれ個性があり、その人たちを不快にさせないというのが人間関係を円滑にする秘訣です。
人間関係がうまく行かない人は、人とのコミュニケーションの仕方が分かっていないことが多く、相手を自分と同じ価値観の人間だと思い込んで話をしてしまいます。
それは間違った認識で、人はそれぞれ違う人間だとしっかりと認識していないと相手を傷つけたり、不快にさせたり、性格が悪いと思われたりしてしまうんです。

だから私のパートナーに対しての躾の基本は人と人とのコミュニケーション術に長けた人に育てたいということなんですね。
自然に振舞え、自然に幸せを与えられるような人に導いていきたいと考えています。
まぁこれは究極で実現という意味では不可能に近い事なんですけどね^^:

理想ですからそれに向かって躾ている、そういう方向性という意味で、普通の人よりもコミュニケーションに関して少しでも優れてくれたらまあ、満足はしますね。
人に愛情を与えられる人間、相手のことを考えてあげれる人間、相手をまず優先に考えられる人になってくれればなと思っています。

自分のことは二の次。
まずは相手のことを考える、そういう人間ってすばらしいと思います。
そういう頑張り屋さんのはけ口は全て私が吸い取ってあげたいなという気持ちにさせるんです^^

カーの苦悩!?

こうやってお仕置きブログを書いているとキーさん(お仕置きをされる側)からだけではなく、カーさん(お仕置きをする側)達からもメッセージをもらいます。
まあ、相談事ですね。
未経験者やさほど経験のない人からなのですがだれも不安要素は似たり寄ったりです。

キーやカー、スパ等、意味が分からない人はスパ用語を見てください。

内容は他のカーさんと比較されるのが怖いとか、お説教の仕方が分からないとかですね。
キーさんが何人かのカーさんと絡んでいるとやはりプレッシャーになるのでしょうね。
そんな時に私は「比較してもしょうがないこと、自分の思ったお仕置きをすればそれでいいし、相手にあわす必要はないですよ」といいます。

相手にあわすということは自分の信念を曲げることであり、そうなると長続きはしません。
または信念自体ないのであればまずは信念を自分の中に植えつけることが必要です。
相手にあわさないというのは自分のお仕置き観のことです。
なのでその他のコミュニケーションについては相手にあわす必要はあると思いますし、日々価値観は変わることはあるので信念を曲げるのではなく変えるべきところは柔軟に変えていく、そういう勇気を持つことは必要だと思います。

でもせっかくキーさんと出会ったからにはモノにしたいという気持ちがでて、そこから自分を曲げるのは良くないことです。
んー、これだからうまくいかないんだなぁって思い知らされます。
キーさんはこういうことはなく、自分を曲げてまでカーに会うことはあまりしません、そこが女性的考えと男性的考えの違いなんでしょうね。
(勝手にカー=男性、キー=女性となってしまっていますが)
”パートナーがほしいから自分を曲げる”という行為をカー側がなくしてくれれば一番いいのですが、経験が少なければ少ないほど、なかなかできないのかもしれませんね。

また、お説教についてですが、お説教の仕方なんて人に聞くものじゃないですよね。
その内容によってもキーさんによっても、状況によっても微妙に変わるものなのでなんともいえません。
そんなカーさんには、「駄目な事には必ず理由があって、その理由を説明して理解させることが大事なことでそれを考えれば良いのではないですか」って返しています。
そもそも説教の仕方が分からない時点で家庭的なお仕置きは成立しないので痛いところです^^;

でも他の人と比較されるのって確かに嫌なものですよね、だから経験がないのに経験があるように振舞う。
経験人数は少ないのに多いと偽って必死に勉強をするみたいな。
私は今の自分のお仕置き観をしっかりと持っているので今現在はなんとも思いませんが、思い返してみると私も経験がありましたね。

だいぶ変なお話となってしまいますが、これくらいしか思い当たることがないので、まぁ恥ずかしい話です…。
私は中三のときに初体験をしたんですけど、その時の相手は処女でした^^;
私はその時は経験のある振りをしていましたからね、少しとんがっていたし、見栄というかプライドというか、そんなんで嘘ついていました、お恥ずかしい^^;

また、過去にSMの世界で出会いを求めていた頃、相手は何人かのパートナーと関係をしていましたが、私は初めてでした。
その時でも何人か経験があるということをいって嘘ついていましたね^^;
まあ、相手を安心させるというのと、自分の見栄とそんなところでしたけどね、これもお恥ずかしい(汗)

でもその嘘がばれないように、私は必死になって勉強?をしましたね^^;
初体験のときなんて雑誌を見たり先輩から裏ビデオ借りたりして(笑)
まあ、SMの主従関係の時も言葉遣いや、躾け方をいろいろなところから研究しました。

結局ばれはしなくて見栄を通しちゃいましたけど、やっぱり比較されることが怖くてそのために必死になっていましたね^^;
だからそういった相談はよくわかるのですが、相談してどうなることでもなく自分で必死に調べたり訓練することが大切なんですよね。
自分が必死に相手のことを考え、見つめて、一生懸命に叱ってあげれば相手に通じるはずです。
一生懸命というところは一生懸命であれば必ず相手に通じるからです。

カーがキーさんのスパ観を合わせても、自分のスパ観を表現しても、どちらにしてもキーさんは独自のスパ観をもっているので何か違えば必ず違和感が出てくるものです。
それなのに自分を偽ってもしょうがないんですよね。

それならばカーもしっかりと自分のスパ観をもって、それに見合ったキーさんを見つけることが大事なことだと思います。
あせらずにじっくりと失敗を繰り返して自分のスパ観を作り上げていけばいいと思います。
説教のうまい下手はそんなにはこだわらなくていいのではないかと思います。
説教がうまい人はうまいし、それに対して比較してもしょうがないことです。

そんなことよりも真剣に相手を考え、好きになり、必死に向き合うことが一番大切なことなんだと思います。

してはいけないことは何故してはいけないのか?

してはいけないことは何故してはいけないのでしょうか?
法律だから?マナーだから?常識だから?
では何故それを守らないといけないのでしょうか?
人間が勝手に決めてきたことを何故それに従い生きているのでしょうか?

そしてそれに従わなければ場合によっては当局に拘束され、最悪死刑にまで処せられます。
おかしいと思うのは同じ事柄でも国によっては違法なものと合法なものがありますよね。
人としてやってはいけないことの定義が国によって違う、地域によって違う、町によって違うって少しおかしいと思いませんか?

まあ、国民性というものがあるのでしょうがない部分もありますが、日を追うごとにどんどんと人間が縛られてきています。
日本でも条例はその地域によって違い、その地域だけやってはいけないことがあります、こうなってくるとただ単に個人的な価値観を押し付けているだけのことのようにも思えます。
また死刑がある国とない国がありますよね、これは究極ですが、どの地域で犯罪をしたかによって運命が変わってしまうなんてあっていいものでしょうか。

そもそも法律やマナーというものは自分自身を守るために作られてきたものなんですよね。
道徳観でいえば宗教の教えもそうです。
してはいけないこととは、それをしてしまったら他人に迷惑がかかるから、傷つく人が出るからということが前提です。

その中でも他人に怪我を負わしたり大きな損害を与えることをしたらその罪は大きくなります。
強盗、強姦、殺人等の凶悪事件はなくなることはありませんが、これらが悪とされているのはみんなが安心して生活できなくなるからなんですよね。
そんな人がたくさんいたら精神健康上にも悪いことですから、人間社会で生活するうえで法律は必要なんです。
他人に迷惑がかかる行為の一部を犯罪としていますが、結局は自分自身を守るためなんです。

でもこれって地球を支配している人間だからできることで、他の動物達からしたら人間は残虐で鬼畜だとしか思わないでしょうね。
命は平等なはずなのに動物や植物の命を絶つことに対してはそれ相応の正当性という詭弁がついて回ります。
とりあえず人間だけは子孫を残し、生き延びればそれでいい的な発想ですよね。
人が動物を殺した場合、動物が人を殺した場合、全く見方が違いますよね、罪悪と正義の区別も、全て人間が決めています。
ただ、それを否定するわけではなく、それによって幸福な人生を送れているというのは事実です。
しかし罪悪感を持とうとしないというか正当化しているところが少し引っかかります。

だいぶ話がそれました(笑)

してはいけないこと。
これは人間が快適に生活を送るためにみんなが守っていかなければならないことなんですよね。
それに反すると嫌な思いをする人間が出てくる、傷つく人間が出てくる、ということは自分もそうなることにつながるんです。
そういうことがないように、幸せになる人を増やすために決められたこと。
法律、道徳、マナーというのはそういうところからきているんだと思います。

何故してはいけないことをしちゃダメなのかは、他人を不快な気持ちをさせてしまうとその人はもちろん自分も不快な気持ちになり、他人も自分も傷ついてしまうことにつながるからだと私は解釈しています。
そして他人を傷つける度合いによって法律という枠で裁かれ、それを抑止しているのではないでしょうか。

犯罪まで行かずもっと軽いことでいうと、
道徳的には、例えば朝の挨拶で「おはよう!」って元気に声をかけられたら嬉しいですよね。
仮に自分が声をかけたとして、でも相手が無言だと悲しいし気分が悪いですよね。
「おはよう!」ていう挨拶一つでお互い今日一日いい気分で過ごせる気がしますよね。

これは法律でも義務ではないから嬉しいんです、そして偽善ではなく本心ですることが大事です。
そういう気持ちを持ってみんなが接していればもっと快適な日常を送れると思います。
すぐに「相手が挨拶しないから私もしない」
となりますが、そうではなく自分からするということが大事です。

そういう考えの人は悪いことしても「自分の方がまだましだからいい」とか「誰誰もしているからいい」
とか他人と比較して変な正当性を主張する傾向にあります。
でも自分は自分、他人は関係なく自分が周りに幸福を与えるという考えでないとみんなが幸せになることはありません。
これは法律ではなく決まりごとではありませんが、法律を守る以前にそういう気持ちになれたらそもそも細かい法律なんて必要ないんですけどね。

それと法律的にはしてはいけないことって毎日毎日増えているんですよね、どんどん法律ができていくということはどんどんしてはいけないことが増えているってことです。
現代は幸福すぎるので他の何かを欲するのでしょうか?
とても他人に敏感になり、気を使い、どんどんと住みにくい世の中になっていく気がします。

法律にがんじがらめになり、他人の目を気にしすぎ、精神的に疲れてしまいそうです。
偽善で取り繕って本音で話ができる人間が少なくなっていくような気もします。
人間は機械ではありません、心と心でぶつかってそれが人間です。
本音を出したら嫌われるとか関わったら面倒くさいことになるとか、そういう雑念がいっぱいでコミュニケーションをとる力がなくなってきているようにも思えます。

だから自分に自信がなく、誰かに見てほしくて、でも他人には無関心で甘えた考え。
自分の理想と現実のギャップがありすぎて絶えず不安を抱えている若者が多いのではないでしょうか。
これも人間が機械のようになってしまっているので愛情を与えられず、愛情を注がれていない人間は理想だけが膨らみ愛情に飢えてしまうのでしょう。
法律で縛られてくると人間らしさがどんどん消えていくような気がします。

しかし幸福な世の中になるにつれて歪んだ犯罪も増えてくるのでそれはしょうがないことなのでしょう。
他人を不快にすることはしてはいけないことなんです、そのことを個々の心の中においておけば法律だらけのなかに生きる機械人間にはならないでいられるような気がします。

今はネット時代、物を買うにも取引するにも、銀行や証券も、そしてマネーゲームも全て機械です。
どんどんと心をなくしていくような気がしませんか。
いけないことははっきりといけないといってあげられる世の中は必要です。
そういうところでも心の温かみを感じることができるでしょう。

いけないよといっても屁理屈ばかりいって聞く耳持たない人はたくさんいます、
「何でだめなの?」と聞かれたら、いろいろと説明はしてみるものの、結局は「他人に迷惑がかかる、そして自分もされたらいやなことだから」
という言葉でしか説明ができませんよね。

これ以上説明できない私も説得力がないのでしょうが、そうなったらお仕置きで分かってもうらしかありません。
でも、その通りなんですよね、とにかく他人が不快になるような行為だからしてはいけないんです。
私は法律の枠に因われることなく、他人に対して少しでも不快な気分にさせたのならば、それはお仕置きの対象になるんです。

「そんなことも理解できない悪い子はお尻ペンだよ!」と^^;

お仕置きをすれば嫌でも「ごめんなさい、わかったよ」といえるでしょう。
その返事がお仕置き逃れの口だけでもしょうがないですが、そうであればお仕置きは理解できるまで続くだけです、お尻のために理解するでしょうね(笑)

他人を不快にさせて傷つけてしまったら必ず自分に返ってきます。
自分が傷つくことになります、もっと自分を大切に、自分のためにも他人を大切にしてあげれたらいいですね^^

カーの魅力

キー(お仕置きされる側)の魅力ってありますよね、それは誰でも理解できると思います、構って欲しい願望、甘えたい願望って誰でもありますし、誰かに真剣に見ていてもらえるって幸せなことですからね。
そして真剣に成長のために叱ってもらえるって嬉しいことではないでしょうか、そしてその上でキュンキュンしてしまうお尻ペンペンですからね^^

でもカー(お仕置きする側)の魅力ってどこにあるのか不思議ではないでしょうか。
ディシプリン派のカーとは性的要素を含まない躾の為のお仕置きのことをいうんですけど、それを理解できない人が多いようです。

SM要素があるカーは
性的なことを少しは含まないと面白くないと考えていたり、
性的要素を含まないお仕置きなんてあるはずがないと思ったり、
結局キーもMの卵なんだからと考えていたり、
ディシプリン派のカーの存在自体を否定したり、そういうカーがいることは事実です。
まぁ性的なことを少しでも考えている人や叩きたいだけのカーであれば理解は難しいでしょうけどね。

キーやカー、スパ等、意味が分からない人はスパ用語を見てください。

また、キーさんの多くは
「性的なことはしないでください」
と前もって宣告して、その条件でパートナーを探すのですが、多くのカーはただ会いたいだけで、とりあえず性的なことを隠して会う人が多いみたいですね。
そして約束どおり性的なことをしないでお仕置きをするのですが、数ヶ月もすると性的な事が出来ないとつまらないので離れていってしまったり、性的なことをしようとして拒否されてしまい、それでは面白くないので理由をつけて関係を解消する人が多いようです。
その場合は決まって仕事が忙しいとか時間が作れないとかで自然消滅に持って行くのが定番ですね。

正当なディシプリン派のお尻ぺんのお仕置きは躾の為にする行為です。
純粋にディシプリン的なお尻叩きを望んでいるキーさんが多いのですが、一方性的であるSM的なお仕置を好むカーもいて、その両者がパートナーになってしまうことも当然あります。
カーの多くは最終的には性的なものを含むことに魅力を感じている人が多いので、キーさんはそれを見極めて、それを受け入れるのか受け入れないのかという信念のようなものをしっかり持っていないといけませんね。

話が飛んでしまいましたが、カーと名乗る人は多少なりとも性的なことがあるから叩くことに魅力を感じてるか、単にお尻フェチとか、お尻を叩くことだけに魅力を感じる人が多いのが現実みたいです。
まぁそれはそれでカーさんの考え方なのでいいのですが、それはキーさんとの関係で需要と供給が合えばの話です。

で、私がしたいお仕置きは、そこに性的なことを入れたくないんですね。
性的なものを求めるのであればそれはSM行為等で吐き出せばいいことで、家庭的なお仕置きの時はそれは一切必要ありません。
お仕置きの魅力は相手が大人であること、そしてその大人が叱られることを求めているというところにもあります。
もちろん叱られる内容には道徳的な正当性があることが条件となりますが、常識に反する行為、迷惑をかけるような行為はやってはいけないこと、それをしてしまったことに対して叱られ、反省をするわけです。

当然のことながらそれを求めているので正当性さえあれば喧嘩にならない、言い訳や無駄な抵抗をしても、最後には素直にごめんなさいをする。
ようするに聞く耳を持っているんですね、というよりも悪いことを認識しており、既に反省もしているわけです。
私はそういう心の全てを出してくれる行為に魅力を感じています。

近い友達や彼氏、家族にも言えないようなことでも打ち明けてくれる。
私を必要としてくれ、お説教とお仕置きによって心が安定し、前を向いてくれる。
私を必要としてくれるからこそ私は相手に好意を持ち、相手のために叱り、前向きに歩いて行ってもらいたいんです。

それが結果私が満たされることにつながります。
お尻叩きは結果論で、こういう精神的なやりとりに私は魅力を感じています。
といっても悪い事をしたら罰は必ず必要で結果論といってもそういう子を懲らしめる行為は大きな魅力です^^;
だから私の場合はカーさんが持っているスパの世界観とは違うというか、魅力を感じている根底が違うんですね。

日常よくあることですが、正当性があるにもかかわらずそれを主張しても通らないことってありますよね。
間違いであることを追求しても価値観の違いや相手に屈したくない一心で話がかみ合わないとか。
その結果感情的になって喧嘩をするなんてことは世の中たくさんあります。
それが親子でも恋人でも友達でも他人でもです。
それってもの凄く歯がゆいし理不尽でもあるし、正当性のあることが聞き入れられないって本当に腹が立つものです。

逆に最終的には素直に非を認め、話を聞き入れられると自分の正当性が受け入れられ気持ちがいいものです。
キーとカーの関係性、魅力の一つはそこにもあり、キーさんは悪いことを既に認識しているので当たり前のことですが理解してくれるんですね、きちんと聞く耳を持ちごめんなさいができる子なんです。
結局はお説教を受けに来ている前提ですから、聞く耳を持っていて話が通じるんですね。

更にお尻ペンのお仕置きを求めているというところも魅力です。
精神的には求めているけど、求めていない自分もいるというところがいいですね。
求めてばかりは困りものですが、そのバランスは難しいのです。
ただ、お仕置きは本当は嫌だという気持ちを持っていないとお仕置きの魅力も半減してしまうでしょう。

私は嫌がって、痛がって、必死になってごめんなさいを連呼する姿に可愛さと愛おしさを感じてしまうんですね(汗)
だからといって虐待的な痛みを与えるのではなく、その人それぞれにあった限界を探りつつ手加減をして痛みを与えます。
痛がって嫌がってごめんなさいをする仕草にとてつもない”温もり”を感じてしまいます。
まぁ本来”痛い”からといってごめんさいを言うのはいけないことなんですけどね^^;

まだ魅力はあります。
子供ではなく大人であること。
大人が子供のようにお尻を丸出しにされてお仕置きをされている、このギャップがとても好きです。
大人ですから子供と違って恥ずかしいという気持ちがかなり強いはずです。
子供に返っているといっても精神的に全て子供に戻ることはできません、そういった部分も人間の素の部分として感じることができるので好きです。

あとはお仕置きのあとのスキンシップもいいですね。
お仕置きで叱り、反抗し、嫌がり駄々をこね、最終的にはごめんなさいをし、お尻を叩かれ、普通だったら嫌われてしまうような行為をしてもお仕置きが終わると甘えてくる。
こちらも相手がきちんと反省できたときには全てを許し受け入れる。

その時に「いい子いい子」と頭を撫でてあげたり、相手が求めれば抱っこをしてあげたり、甘えさせる時間、愛情を感じさせる時間をたっぷりととってあげます。
それは私の癒しの時間にもなり、これは私も満たされることにつながるんですね。

こちら側のお説教に正当性さえあれば厳しくできる、そういう前提があるからこそきちんと叱ることができ、お尻ペンができるのだと思います。
好かれようとすれば加減して叱ったり痛くないようにお尻を叩いたりとするのでしょうが、その必要はなく、それも魅力のひとつです。

もしそれで嫌われてしまいキーさんが離れていったらそれはお仕置き観の違いだと認識できるし、価値観の違うキーさんを追いかけることはしません。
ただ、追いかけはしませんが、戻ってきたら受け入れますけどね。
戻ってくる”しおらしさ”がまた可愛くて、なんだかんだ戻ってくるって嬉しいものです。

でも本当に逃げたいのであれば、自分にあったカーを探すべきだし、私も自分を曲げてまでキーさんの機嫌をとるようなことはしたくありません。

キーさんとはお仕置きを通して、私に何でも話せるような間柄でいて欲しく、その上で仲良くしていたいです。
時には我侭をいってみてもいいし、本気で怒ってみてもいいし、それがキーさんの可愛いところだと認識しています。
そういうキーさんと関係を持つことが出来るのはたくさんの魅力があると私は思っています。

お仕置きのシチュエーションと考え方

お仕置きのシチュエーションってそれぞれ思い入れがありますが、特にキーさんは自分の理想のお仕置きを妄想しがちです。
でもそれは小説やブログ、アニメ等を見ての憧れであり、自分に当てはめてお尻ペンのお仕置きをリアルに考えた結果だと思います。
キーさんの考えるお仕置きは日常的、カーさんの多くが考えるお仕置きは非日常的ということも多いのではないかと思います。

キーやカー、スパ等、意味が分からない人はスパ用語を見てください。

私のお仕置きのシチュエーションは親が子供にするようなお仕置きです。
それが一番自然だと思うので、それを元に全てが展開します。
ただそれ以外にもいろいろなシチュエーションがありますね。

例えば、先生が生徒である子供にするお仕置きですが、これはどうしても限界がありますよね、親には出来ても先生にはそこまで出来ないお仕置きがあります。
そして愛情という面でも親が子供に対する愛情が過剰でも問題ありませんが、それが先生だとあまりにも過剰な愛情は何か違和感があり、一般的にも問題がありそうですよね^^;

そして何よりも先生と生徒では対等の立場ではありません、れっきとした上下関係でのお仕置きとなります。
生徒は基本敬語で話し、先生は命令口調で話すことが多いでしょう。
まさしく体罰という言葉がふさわしく、私は家庭的なお仕置きという意味ではそういう関係は好みません。

次に、お兄さんというシチュエーションを好むキーさんもいますよね。
それも私は兄妹の過剰な愛情には違和感が出てしまうんですよね。
親は子供には愛しているよって普通にいえますが、兄から妹に「愛しているよ」という発言とかギュウして抱きしめるとか、行き過ぎた愛情に見えてしまい、私にはありえない行動です^^;

そして一番多く、一番理想とされるのが恋人ですよね。
まあ、実際お尻をペチンしたりお尻を丸出しにしたりする行為なので女性としては出来れば他人ではなく、お付き合いしている彼氏だけに触れてほしいし他人にはできることなら触れられたくないということを考えてしまうのでしょう。
そういう女性的な内面ではそれは正解なのかもしれませんが、恋人となってしまったら本当のお仕置きは難しいと思うんですよね。

前にも触れましたがどうしても普通の恋愛だとお互いに対等であり不満もあり喧嘩もします。
感情的にもなり冷静に説教が出来ないこともあり、なにより感情的になっていてはお仕置きはできません。
単なる自分の価値観を押し付けたり相手の嫌なところを見つけそこが気になってくると別れへと進んでしまうのが自然ですよね。
自分が気に食わないことでお仕置きをしてしまったらそれは違うし、喧嘩をしているときにはお仕置きはしないだろうし、いろいろな弊害が見えてきます、まあ、そこまでの愛情なんですよね。

本来なら喧嘩をしている時こそお仕置きをし、それが冷静にできたら素晴らしいと思います(私はそのようにしますが^^;)
また恋愛関係だと本当にダメなことをお説教してもそれが相手の価値観やこじつけ、その時の機嫌だと勘違いしてしまうことがあるのでそういうところも難しいと思います。
すべてはお仕置きする側の持って行きかたと、お仕置きされる側の受け入れ方になるのですが、理想とはいえ難しい関係だということは間違いないと思います。

私はそういうことを分析してみた結果、親と子供の設定が一番自然で全てがクリアになるのではないかと思いました。
親と子の愛情は恋人の愛情とは比べ物にならず、嫌なところがあっても嫌いになることはありません。
恋人への愛情を遥かに越えたもっと大きい愛情、悪いところも嫌なところも全て受け入れ、全て包み込むような愛情なんですね。

自分の娘でも恋人のように甘えさせることもあり、恋人以上に愛する事だってあります。
娘だって「パパ大好きだよ」とか「パパと結婚したい」とか普通に言ってきますよね。
親としてだって彼氏が出来たら焼餅を焼くこともあるだろうし、お付き合いに反対することもあるだろうし、でもそれが愛情なんだと思いますしこれも日常的にも普通にある光景ですよね。
ただ、それが恋愛に変わってしまうとお仕置きは成り立ちにくいと思うので、私は絶対に恋人関係にならないように注意しないといけないと思っています。

まあ、設定というのは二人だけのためにあるもので心の持ちよう、もって行き方なんですね。
お仕置きを受ける側が子供に戻らなくてはならないというわけではなく、私がこういう感覚で取り組めば相手を冷静にきちんと見てあげられる、大きな心で嫌なところも駄目な所もしっかりと見届けて話もしてあげれるということなんです。
だからキーさんに対しての私の行動は、全て自分の子供のような感覚として接し、お仕置きも何もかも子供に対しての愛情として取り組んでいることにつながっているんです。

このような考えなので性的要素を含むことはお仕置き行為をしている限りありえないんですよね。
お尻を出して立たせたり、足を持ち上げてお尻を叩いたりする事も時にはありますが、私は性的な感覚でそれをしているわけではないので、それは性的ではないと思っているし、そもそもお仕置きの時はそんな目では見ていません。

そんな感覚なのでお尻ペチンとかお尻ペンペン、お尻叩きという表現は好きなのですが、スパンキングという言葉を使うととても違和感が生じます。
英語的には普通なのかもしれませんが、日本の感覚で言うスパンキングって違う意味に取ってしまうんですよね。だから私は「スパンキングするよ」なんて発言は一度もしたことはありません。

まあ、私的なスパのシチュエーションや考え方はこんな感じということを紹介しておきます^^

お尻ペンペンのお仕置きの必要性

お尻ペンペンはお尻叩きのことで、英語で言うとスパンキングですが、スパンキングという言葉を使うと日本では性的な意味合いとなってしまうので私はスパンキングという言葉は好みません。
また、スパ用語というものも遊び的な感じとなってしまうので極力使いたくはありません。

ただその言葉を使わなければ通じないこと、相手に届かないこともあるのでこのブログでは最低限は使用していますけどね。
少しでも遊び的要素、SM的要素、性的要素などが入ってしまうと、親と子供的な本物のお仕置きをコンセプトにしている私には違和感が出てしまうので、そういった言葉や雰囲気は排除しているんです。
だから私は「SM的なお仕置きやスパンキング」と「ディシプリン系のスパ(家庭で実際あるお仕置き)」をきっちりと分けたいんですね。

ちなみに私のお仕置きは性的な要素が全くありません。
それでないと悪い事に対する罰であるお仕置きは成立しないものだと私は思っているからです。


本題に入ります。
お尻ペンのお仕置きの必要性ってあると思うんです。
もしかしたらお仕置きは子供よりも大人の方が必要なのかなと最近感じます。
子供は無邪気に生きている為、我慢をすることはあまり無く、我侭をいい、迷惑をかけ、そして叱られ、いろいろなことを覚えていきます。
そこにお仕置きがあってもなくても善悪というものを覚えていくものです。

ここで大事なことは大人と比べて我慢をしていないこと、つまり大人レベルのストレスを抱えていないことです。
家庭環境によっては強制的に我慢をしたり、性格により悪いことができずに我慢し続けている人もいます。
学校などで過度なストレスを抱えている人もいるので全てがというわけではありませんが。

まぁ幼少期の子供というものは我慢しすぎてはいけないと私は思います。
悪戯をし我侭をいい、そして叱られることによって愛情を感じ、善悪の判断をしていく方が精神健康上はいいからです。
そしてそういう愛情を感じられなかった人はそれを求めてスパ(お仕置き)の世界であるお仕置きに憧れや甘えを求めてしまうのだと思います。

大人になるとどうでしょうか。
社会生活は我慢だらけでそれが当たり前であり、周りと比較して我慢比べをしているようなものだと私は思います。
当然のことながらストレスがたまり精神的に不安定になります。
落ち込みたくても周りを気にして明るく振舞ったり、空気を良くしようと努力をします。

ふと、自分の存在は何なのか、存在して意味はあるのか、自分が生きている必要性はあるのかと考えてしまったりする人もいるでしょう。
何か壁にぶつかった時に既にボロボロになっていても、それを悟られないようにカラ元気になって振舞うしかありません。
大人になるということは我慢することであってそれは自分を出せないことにつながり、それってとても辛いことですよね。

大人は基本的に社会的なルールを守って生きているわけですから叱られることもないし、何かをしたって褒められるわけでもない。
また、例え間違っていることをしてもそれを叱ってくれる人がいなかったり、それを指摘してくれる人がいない環境も多いでしょう。

叱られたとしてもそれは上司の機嫌や都合での叱りで、決して本人のためではないことも多々あるでしょう。
自分が正しいのか間違っているのか、頼れる人もいないし自分自身で解決をしなければならない。
大人だって人間です、そして人間は弱い生き物なんです。
周りには偽善で取り繕った仲間がたくさんいますが実際は一人ぼっちです。
寂しくて何かにすがりたくてもそれはできなくて、本当は弱い人間なのに強がって生きている人が殆どなんですよね。

そんな時にふと思うのは「子供の頃に戻りたい、子供になりたい」
子供のころのいい思い出や子供のころ我慢してたこと、憧れていたこと、やってみたかったこと、してほしかったこと、等々子供に戻りたいって思う人はいると思います。

そんな中で今のストレスを軽減するにはどうしたらいいでしょうか。
話を聞いてもらうこと、そして甘えることではないでしょうか。
また、自分に無関心というのが一番辛いことですから、駄目なことをしたら叱られる、良いことしたら褒められるということも求めてしまうのではないでしょうか。
無邪気な子供に戻って、やりたいことや我侭を思いっきりして、今まで我慢してきた悪戯をしてみたり、自分の駄目な所を告白したりする。
とにかく本当の自分、隠している自分や願望を出してしまうことこそが大切なんだと思います。

子供は悪いことをすれば当然何かしらの罰が待っています、それがお尻叩きのお仕置きということもあるでしょう。
愛情があり、真剣に見てくれているからこそ叱られる、そこが大人になったからこそ気が付く満たされる部分なのではないでしょうか。
子供に返っているわけですからお仕置きは嫌で暴れたり言い訳をしたりして逃げようとします。
子供に戻っていれば心から泣くことができるかもしれません。

涙を流すというのはストレスを取り除くのに一番手っ取り早い方法です、だから落ちる時はとことん落ちてプライドなんか捨てて本気で泣いた方がいいんですね。
泣く兆候があったら、恥ずかしいからと我慢するのではなくこれはチャンスだと思って思いっきり泣くことをしてみてはどうでしょうか。

反省できたと判断できたらお仕置きが終わります、お仕置きが終わったら今までの悪事はお咎め無しになります。
反省が出来て、もうしないと約束できれば過去のことには一切触れません、お仕置きは責任を取る一つの方法であり罰であり、罪悪感の解放でもあり、罪の償いの方法なんですね。
だからこそお仕置きを終えてからネチネチいうことはご法度なんですね。

いい子になったので膝の上にのせて頭を撫でてあげていい子いい子してあげる。
反省できたのだから思う存分甘えさせてあげる。
大きな愛情の中に包まれている抱擁感はとても心が癒されるものだと思います。

この甘えさせる行為ことこそ、お仕置きの中で一番重要なことと私は認識をしています。
ここで愛情をたっぷり与えてあげることこそ大事なんですね。
それによって子供は嫌われていたわけじゃないと理解し、自分のために愛情を持って叱ってくれたんだと分かって安心できるのだと思うからです。
だから思う存分甘えさせることが必要なんですね、いっぱいお話していっぱい話を聞いてもらうだけでも嬉しいですよね。

お仕置きに憧れを持つ人たちは無意識のうちにこのようなことを考えているのだと私は思います。
ただその過程が分からず、「お仕置きしてもらいたい」と直結してしまうので「自分は変なんだ」と悩んでしまったり、違う路線のSM的なスパンキングに行ってしまったりして傷ついたりもしてしまうんでしょう。
どちらにしてもお尻ペンのお仕置きは本当に奥が深く、大人の精神面を癒すにはとても大切なことであると思います。

だからこそ子供よりも大人の方がお仕置きが必要であって、それによってストレスから解放できれるのであれば魔法の儀式ですよね。
明日からまた頑張ろうという前向きな気持ちにもなるでしょう。

でも、お尻ペンのお仕置きは痛いんですよ、痛いと文句を言ってみたとしてもそれは悪い子であった自分の責任ですから^^;
人間誰でも自分を真剣に見てくれる人に出会えたら幸せなものなんです^^

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プロフィール

京介(きょうすけ)

Author:京介(きょうすけ)
初めまして、京介(きょうすけ)といいます。

スパといわれている世界ではいわゆるディシプリン派の”カー”という存在らしいです。
そしてお説教やお仕置きは私の日常です。
私の普段の言動や行動がスパでいう”カー”というものに似ているだけなので、スパという”作られた世界”の住人である意識は全くないんです。
それくらい日常的にお説教やお仕置きをしているってことです(笑)

お説教や相手との対話については私の中では”心の安定でありカウンセリング的な心のケア”と認識しており、お仕置きの中で一番重要視していることです。
相手の理由や言い分をしっかりと聞いた上で、客観的に「何故直さなければならないか」という説明をし、納得をさせる事がお説教と位置づけており、お仕置き後のアフターフォローとしての対話を含め、イメージ的にはカウンセリングのようなものです。

なので私はこじつけの理由ではなくリアルな理由でしかお説教やお仕置きはしません。
そしてお説教とお仕置きはセットでなければ意味はなく、更にお仕置き後のアフターケアがないと成立しません。
私のお仕置き基準は「他人を不快にする行為、約束を破る行為」について特に厳しく接しています。

お仕置きでの関係性は親と子供的なものです、それをコンセプトに全てが成り立っています。
つまり相手とはある意味対等な立場であり、私が命令口調で話したりすることもありません。
また、教師と生徒的のような上下関係の立場から物事を矯正するということも好みません。

このような上下関係のあるお仕置きは恐怖心により支配しているものでもあり、自尊心を傷つける場合もあるので親子間での愛情のあるお仕置きとは全く別物と認識しています。
こういう考えなので親子的でもあり友人的な立場という立ち位置が一番しっくりきます。

ここに至るまで、過去私はSMという世界を体験しました、SMの世界といったら大げさなのですが、最初はS的な欲求を満たすために足を踏み入れたのですが、どんどんと精神的な心の部分を追求するようになっていきました。
そうしているうちに”人間の心や本質”をもっと追求したくなり、そうなるとSMに何かしらの違和感もでてきて、その違和感を解消しようと模索した結果、スパといわれている今この場所にたどり着いたのです。

その違和感を簡単にいうと、SMは性的なお仕置きや理不尽なお仕置きがまかり通っていたり、性欲を満たすのに貪欲すぎるところです。
もちろんSM的な事は面白みはあるので、性欲のはけ口としてはいいのですが、性欲以外の部分を満たすためにはちょっと物足りなかったんです。

そんな中、キーさんと関りを持つことで心地よさを感じ、私の求めていた精神的な世界を見つけたって感じなんですね。
スパの”カー”からSMの””に移行する人ってたくさんいますが、私はその逆バージョンみたいな感じなんですね(笑)
SMの精神的な部分の究極を追求した結果、スパといわれている世界にたどり着いたので、過去の体験があるからこそ今の自分があるんだと思っています。

このブログを書き始めることになったきっかけですが、それはお仕置きに興味がある若い女性が結構いる事を知ったからです。
真面目に苦しんでいる人達を私の言葉により一人でも救ってあげれたらなという気持ちで書いていこうと思いました。
そういう人たちと出会い、関わっていきたいと思ってブログを書こうとなったんです^^

こういう世界に入り込んでしまう人は、幼少期に目撃してしまったお仕置きシーンがいつの間にか脳裏に焼き付いてしまい、いけないと思っても頭から離れないケースや、親子関係の確執や養育環境であったりと、何かしらのきっかけがあるものです。
みなさんは揃ってお仕置きの事を考えてはいけないと頭から消そうとしますが、脳裏に焼き付いてしまったキー気質は消し去ることはできません。

ではどうしたらいいのか。
どうにもならない欲求をなんとかしたいなら、経験して欲求を薄めることに限ります、勇気をもって経験することで欲求は薄まり、お仕置きのことばかり考えてしまって支障が出ていた日常生活も回るようになるものです。
欲求を解消する方法は欲求を満たすしかありません。

ここでは、悩みや闇を抱えている人はもちろん、欲求や思いを吐き出し、このブログを通じて自分の居場所を見つけ、少しでも心の安らぎを感じて欲しいと思っています。
そういった精神的な部分を私は一番大切にしています。

お仕置きに憧れを持つことは、叱られる愛情や甘える事を求めているからともいえます。
ドキドキしたりするのは、自分の求めていた愛情が受けられる、甘えられるという妄想で、それが無意識に反応してしまうだけです。
全ては無意識で起こる深層心理下での心の動きなんですね。

そしてこんな風に思える人は決して叩かれたいだけではないはずです。
なのでこの家庭的なお仕置きに対してSMのような概念は捨てて、客観的に自己を見つめる為に必要な、ある意味健全な事と解釈しましょう。
他人には言えなくても、ここはみなさんが本当の自分を出せる心の解放の場であり居場所でもあります、そして人生において成長の場と捉えれば必要な場所にも変わってきます。
なのでスパという概念も捨てて、客観的に自己を見つめるためにお仕置きに関わる、という意識になることがとても大切なことだと思います。

こんな感じの私ですが、様々な人達を見てきていますのでどんな内容でも私が引いてしまうことはありません。
みなさんそこが心配なようですが、世の中の裏も表も悪い人もいい人もいろいろと見てきましたし、そもそも人間は弱い生き物なので、人をだましてしまったり殺めてしまったとしてもそれを聞いてドン引きするようなことはありません。
人としてどうなの?ということだとしてもそれを話してくれたことに私は親身さを感じてしまう性格なんです。

また、私は概念や雑念に捉われません、客観的に受け止めますので共感は強くしますが、同情のようなことは基本的にすることはありません。
なので悩みや相談がありましたら気軽にしてください。
どのような立場の方でも個人情報を漏らすことは決してありませんのでそこは安心してください。

自分の満たされない思い、満たされたい思いをお仕置きを通じて体験してみましょう。
体験は若ければ若いほどいいです、歳を重ねると欲求を薄めていくことは難しくなり、どちらにしても卒業しなければならない必要性が出てきます、いつまでもパートナーがいるわけではありませんからそうなると心が苦しくなるだけですからね。
若いうちに体験しておくと卒業もしやすいですからそういう意味でも急ぎましょう^^

何度も言いますが、お仕置き欲求をなんとかするにはお仕置きを経験することです。
欲求が消えることはありませんが、薄めることは可能です、ネットでの出会いとなりますが、約束事はしっかりと守っていますので、勇気をもって連絡してみてください。

京介

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