危険な血液型占い

いきなりですが、血液型のお話をしたいと思います。

血液によって性格って違いますよね、
でも、アメリカの心理学的な研究では血液型と性格の因果関係は全くないそうです。
まあ、過去の情報なので今現在の最新の情報は分からないのでご了承を。
国によってはO型しかいない国も存在していますからその国が全員同じ性格とは考えにくいですしね。

でも確実に血液型と性格っていうのは関係があるって思いませんか?
人と接していれば全てではないにしても血液型で大まかな性格は理解できることが多いので、血液型と性格は関係があることくらい肌で感じますよね。
でもなんでアメリカではそれがないのか、結構昔ですがそのことを知ったときに考えてみました。

ここからは自論です。
ま、一言で言ったら血液型別性格は暗示によるものだと私は思っているんです。
だから雑誌によく載っている血液型占いって結構恐ろしいものなんだなって思うんです。
考えてみたら幼い頃から雑誌には必ず血液型占いが載っていました(昔は特に人気がありました)
毎日、毎週、毎月、必ず誰しも目にしてきただろうと思います。

幼い頃から自分の血液型について精神的に洗脳されて来たらどうなると思いますか?
様々な血液型の長所、短所がありますよね、人間ズボラなときもあるし、細かいときもあるし、自己中な時も、潔癖なときも必ずあると思います、そのいずれかの行動をしたときに、同じことが占いに書かれていたとしたら、やっぱり私は何型なんだと再認識してしまいますよね。

実はこれは誰にでも当てはまるような行動を書いているに過ぎないんですよね、それが多少なりとも当たっていると全てを信じてしまうという心理が働いてしまうので占いではこういう手法を使うことがあるんです。
最初は少しだけでも当たったり占いの事例とかぶれば、それが衝撃的すぎて印象に強く残ってしまうんです。
当たっていなければそのままスルーしますが、当たったときにはそれはたまたまなのですが、やっぱりそうなんだと変な納得をしてしまいます。

そうしたことを続けてくると自己暗示的に誰かが作り上げた血液型の性格になってしまうんですね。
それって本当に恐ろしいことだと思いませんか?
実際、こうした手法を用いて、まずは信用信頼させるという作業をしているような職業はいくつか存在します。

アメリカにはそもそも血液型占いなんて存在していないので、こうしたことからアメリカでは血液型と性格の因果関係はないと断言しているんだと思います。
逆に日本は心理学的に研究をすれば絶対に因果関係は出てくるはずです。
しかしそれは血液型占いの暗示であって幼い頃からの洗脳の為であると結論が出ると思います。

なので結局は因果関係はないと結論付けられる結果にはなってしまうでしょうけど。
まぁ、血液型については、悪いことばかりであれば信用しないようになるのかもしれませんが、たまにでもいいことがあると異常に反応してしまい、自分の血液型の性格を受け入れてしまう傾向にありますよね。

今までブログにも書いてきましたが、幼少期の育った環境というのは成人になって大きく響いてきます。
虐待された子、過保護な子、いじめられた子、裏切り続けられた子、見放された子、叱られたことがない子、愛情に飢えている子。。。
等々、そういった子は特にその一部分の精神が成長できずに過去の欲求を成人になっても追い求めてしまいます、過去に経験できなかった何かを求めてしまうんですよね。

その子達の愛情表現や人との接し方は自然と親から教わり精神的に身についてしまいます。
だから虐待を繰り返したり離婚を繰り返すケースが少なからずあるんですよね。
遺伝ではなくこれは精神的に植えつけられてしまった部分で愛情表現というものを歪んで学んでしまった結果なんだと思います。

親から受けた屈辱は自分ではやらないと決めるのですが、その大半は同じことを繰り返してしまう、そしてそのことについて苦しむ。
これは頭の中身ではいけないと判断していても、無意識に培われた感覚的な部分で違う判断をしてしまい心と脳が矛盾することによって葛藤してしまうんだと思います。

幼い頃から培われてきた部分ってそれだけ恐ろしいものなんですね。
だから血液型占いは恐ろしい、即刻やめるべきだと思っちゃいます。
洗脳行為だとして法律で規制しなくてはいけないほど危険なものだとも感じます^^;
それは、血液型占いによって、人間の性格を決めてしまう恐れあるものですからね。
放送法でも他の法律でも洗脳行為は取り締まりの対象となります、これも同じ行為じゃないかとつい思ってしまいます^^;

と私は結構昔からこのように思っていました、それと血液型で人を判断するのは日本では有りです。
それでも自分を強く持っている人は血液型の洗脳に流されずにきちんと自分の性格を維持できているんです。
そうやって築き上げられてしまった性格はもうどうにもならないかもしれません…。

まあ、今回のお話しは私の自論ですが、このくらいのことはすでに出回っているのかもしれません。
というか、その筋の人からしたら「何を今さら」と笑われることかもしれませんが。

血液型は自己暗示によるもの、情報による洗脳の何者でもない。
それがちょっといいたくなりました(汗)
でもそれによって作り上げられた性格を今更変えるのは無理なのかもしれませんね^^;

叱ると怒るの違いと叱り方

叱ると怒るっていうのは同義語として扱われることがありますが、私の中では全くの別物です。
怒るというのは感情のコントロールができない怒りのことだと思います。
怒りだとつい愛情を忘れてしまったり、酷い言葉を発したりしてしまいます。
それでは相手に反省を促すのではなく恐怖を植え付ける行為になってしまいますよね。
怒るとは相手のためではなく、自分のためにすることなんではないでしょうか。
ですから私はお仕置きの時には怒ることはしません。

逆に叱るというのは相手に良くなってほしいと願い、善悪を理解させ、本人に反省させるという愛情のある行為だと思います。
なので感情的にならずに冷静に話をする必要があります。
時には声を荒げたり恐怖感を与えたりすることも相手によっては必要です、しかしそれは冷静な上での表現方法であって叱る手段の一つと思っています。
相手に対して成長を願う愛情が込められていなければそれは叱りではないと思っています。
あくまで相手の成長のために、さらに向上してほしいと思う気持ちがあってこそ叱りなんだと思います。
怒るは自分のためですが、叱るは相手のための行為です。
私はお仕置きの場合はこの”叱り”をします。

そして叱り方というのが結構難しいんですね。
ただ単に叱るのは誰でも出来ますが、何故駄目なのかを説明して、それを理解させ、反省させるのは難しいんです。
一つの事柄だけならパッと言葉は出てきますが、世の中無数の罪悪があります、そしてその罪悪の判断にはある程度の個人的価値観もかかわってきます。

私は道徳的な価値観を元に判断をしますが、理由を説明しても”何故?”といわれてしまえば説明は難しいんですね。
結局は「他人に迷惑をかける行為だから、そして自分も嫌な気分になる、自分がされても嫌でしょ」的なことをいうのですが、それでも”何故”といわれてしまえばもうお尻を叩くしなくなっちゃうんですよね(笑)

お仕置きを受けに来る子は、そういう事を言って相手を困らせ、それでも一生懸命に叱ってくれる事に愛情を感じてしまうのかもしれませんね^^;
ただ、そうであればこちらとしてはいい迷惑です(汗)
結局そういう人を受け止める的なことがお仕置きには必要なので、相手に操られようが、駆け引きをされようが、それはそれなので構わないのですが、まあ、愛情の裏返しで憎たらしくはなりますよね(笑)


叱り方ですが、叱るので一番いけないパターンってあると思います。
例えば

「~に怒られるから駄目だよ」的な。
「バスの運転手さんに怒られるから静かにしなさい」
「お父さんに叱られるからやっては駄目!」

このような叱り方は日常にあふれていますが、叱られるからやっては駄目というのは最悪な叱り方です。
つい口にしてしまう気持ちは分かりますが、教育上はよくありません。
その他にも軽いパターンとして

「ここで遊んでは駄目」
「お行儀よく食べなさい」

これらも普通に使ってしまいますよね、でもその都度でなくてもいいのできちんと理由を説明することが必要です。
子供は何が正しくて何が間違っているか、更に善悪の基準も曖昧にしかわかっていません。
なので大人の常識を子供に理解させるように説明し、その上で反省させないといけません。

大人相手でも同じです。
当たり前のことを説明してあげることによってその理由を再認識することがよくあります。
「何で駄目なの?」「別にいいでしょ」
というのは誰しも心の中にあるのですが、やはりそこは当たり前のことでも説明し、叱ってあげ、過ちを指摘してあげることが必要ではないかと思います。
そして「本当に悪いことをしたから叱られているんだ」ということを実感しさえすれば愛情を感じるのだと思います。

お説教の後はお尻叩きのお仕置きへと移ります。
反省していてもしていなくても悪いことをした代償として、責任を取る一つの手段としてお仕置きをします。
なかなか反省できていない子や素直にごめんなさいをいえない子でもお尻叩きで痛みを感じることによってもう二度としませんという気持ちから反省をします。

体罰を受けたから反省をするというのはどうなのかと反論はあるかもしれませんが、お尻ペンのお仕置きは、その気持ちを引き出す手段であって、その痛さや恐怖によって道徳観を胸に刻み込む一つの方法であってもいいと私は思います。
それによって善悪の判断がつき、悪いことをしなくなるのであればいいと思うんです。
お仕置きしなくてもそれが出来る人、お仕置きがなければできない人、それは人それぞれなのでその個性に合わせたお仕置きをすればいいのではないかと感じます。

でもそれでも反省をしない人はいますよね、悪い事とわかっていても反省しない人。
それはそれでしょうがありません。
「反省した」という言葉を聞くまでは厳しくペンペンしますが、本当に反省したかどうかは心の中の問題なのでわからないこともありますから、そこは悪い事に対して罰を下したという形でも成立すると思っています、理想は心からの反省ですけどね^^;

お仕置きが終わったらしっかりと甘えさせてあげます。
飴と鞭って言葉そのままですが、厳しく叱ってお仕置きをするわけですが、反省できたあとは相手を暖かく受け入れ、甘えさせ、愛情を感じさせる。
このことが叱るという流れの中で一番重要なことだと私は認識しています。
最後にはきちんとした形で愛情を注ぎこみ、愛情を感じさせてあげる。
ここまでの一連の行為が叱るということであって、そうでなければ愛情を感じることは難しいのではないかと思います。

大人も子供も精神構造は深層心理の中では同じです。
それを大人は今までの経験や作り上げられた常識で、子供のころに感じていた純粋な心を打ち消しているだけなんだと思います。
大人だって叱られることが必要だし構ってもらうこと、甘えることが必要なんですよね。

それが心の健康であり、心の安定につながるんです。
大人でも子供のころの純粋な気持ちに戻っていいんです、
いや、むしろ純粋なころの気持ちに戻る必要があるのではないかって私は思います。
それは今の疲弊した人間にとって、とっても大切なことなんではないでしょうか^^

私のお仕置き観

私のお仕置きに関する考え方ですが、
親が子供を躾けるような感覚で相手をみています。
そして相手も、お仕置きの時は子供返りしてもらっても構いません。

また、当然のことながら、お仕置きには性的要素を含むようなことは好みません。
性的要素が入り込んでしまうと全てが崩れてしまい、私のしたい親と子供的なお仕置きとは違うものとなってしまうからです。
性的要素を含むことはそれ以外ですればいいわけで、スパのお仕置き時にそれを取り入れるということはあり得ないという考えです。

相手との関係性ですが、、相手は恋人的な関係ではなく、親や先生的な関係もしくは友達的で恋人未満な関係、そしてお仕置きがなくても普通に話しが出来る間柄がいいですね。
お仕置きは会ったときに必ずするのではなく、理由があり、必要があるときだけするという形が理想です。
そうでなければお尻を叩くだけになり、私はお尻を叩くこと自体が好きなわけではないので、そこには罰に値する理由が必要なんです。

まず相手とはその人自身を知るためにしっかりとお話をして親密になり、相手の性格や心の中身をよく理解をします。
それは相手のことを分からないと心の中身が全く分からないからで、愛情を持って叱ることができないからです。
親身になってこそ真剣に相手のことを考え、相手をいい方向に導けると思うからです。

次にお仕置きですが、反省材料がない限りお仕置きはしたくありません。
こじつけ的な理由、つまり上げ足を取るような理由でのお仕置きはSM的な世界ではありだと思いますが、私のお仕置き観からするとNGです。

ただお仕置きの最中では、言葉の上げ足を取って追加のお仕置きということはしますが、それはあくまで追加であって反省が足りないと言葉で判断するから上げ足を取るのです。
基本的には相手から反省材料を申告するか、私が反省材料を聞いていき、それに対してお仕置きをしたいのですが、そうでなくても目に余る行動をした場合は申告の必要無しでそれこそその場でのリアルお仕置きとなります。

なので、パートナー関係の人と会ったら必ずお仕置きをするというわけではなく、お仕置き理由がなければ話をしたり遊んだりして終わることもあります。
まあ、相手がどうしてもお仕置きされたいのであれば理由を考えて私に報告すればいいということですね。
基本、私がお仕置きするときは、相手がいい方向に向けるために、お説教し、叱り、お仕置きをします。
親子関係の躾もそうだと思いますが、子供のために、悪い子にならない為に愛情のあるお仕置きをする訳なので結局親と同じ感覚なんですよね。

次に、お仕置き理由がある場合にそれに対してお話をします。
説教及び叱ることになりますが、私の場合感情の高ぶりによる”怒る”はしません。
自分自信どう思っているのかを聞き、相手の考えをまず聞いてあげます。
その上で何でそれは駄目なことなのか理由を説明していきます。

相手がそれにより納得するしないはまた別な話ですが、とりあえずは道徳的な考えを示し説教をし、それはいけないことだと叱りつけます。
叱るというよりも諭すという方があっているのかもしれません、そして相手が納得するまで話をしていきます。
その後、その行為の代償としてお尻叩きを始めるわけです。

お仕置きは基本お尻のみを丸出しにしての平手でのお尻叩きです。
最初は膝の上か小脇に抱えた姿勢からのお尻ペンペンですね。
加減はもちろんしますが、痛みは感じてもらいます、その痛みを感じることにより同じ過ちを繰り返さないことにつながるからです。
相手にはお仕置きは辛いものだと認識をしてもらい、本心から二度としない、またしたらお仕置きされるという気持ちにさせたいのです。

お仕置きの最中、相手が嫌がって暴れるのは大いに結構です、ホテルであれば大声を出しても構いません。
お仕置きにじっと耐える必要はなく、逆に抵抗や大声を出すことによりキーさんは甘えることをし、いろいろなものを吐き出せると思います。
また、叩かれている最中に抵抗をしながらも自分の悪いところを罪悪と認識して反省することによって、痛みからではなく、心から泣いてみることも心の解放として必要なことだと思います。
とにかく子供に返ったつもりでお仕置きを受けてほしいですね。

それと、私は叩かれた回数を数えさせることは基本的にはしませんね、仕上げでたまにすることもあるかもしれませんが、基本は私が納得する「ごめんなさい」が言えるまで叩き続けます、数えさせることによって頭の中は数字とあと何回で終わるという逃げの心しか生まれません。
だからそうならないように悪いことをしてしまった事実をお仕置きの最中は頭に入れておいてほしいんですね。
最終的にはごめんなさいがちゃんと言えればお仕置き終了です。

それと、泣かなくても構わないのですが、やっぱりこんなお仕置きされるほどに悪いことをしたという反省から泣くくらいまで自分を追い詰めてほしいですね、決して痛みで泣くのではなく、自分の心と脳で泣いてほしいです。
泣きそうならば我慢せずに泣くことは大切だと思っています、涙とともにストレスや焦燥も流れ落ちるものですから。

あと、私は叱ることはしても怒ることはしないと書きましたが、お仕置きの最中にキーさんが我侭や言い訳をして反省しようとしない場合はワザと感情を付けて怒る、恫喝するということはあります。
とにかくお仕置きの最中には、落ちる時はとことん落ちてほしい、罪悪を感じる時はとことん感じてほしいんです、中途半端に落ち込まずとことん落ち込むことによって罪悪感はより解放されるからです。

お仕置きが終わって反省が出来ているのであればギュッと抱きしめてあげ、頭を撫でてあげます。
もう二度としない約束をして甘えさせる時間を作ります。
この時は好きなように甘えてくれて構いません、その行為は嬉しいんだと思いますが、甘えてくれるってことは私自身もとても嬉しいんですよね。
そしてこのアフターフォローがあってお仕置きの完結で、このアフターフォローがなければ虐待のような感覚になってしまいます。

最後に、私のお仕置きは遊び的なお仕置きではありません。
本気で相手を成長させたいと思ってお仕置きをしています。
本当に許せないことはそのお仕置き1回で直ってほしいですけど、人間はそれほど強いわけではありません。
だから同じことを繰り返してしまっても嘘をつかずにもう一度私に報告する勇気は持っていてほしいと思っています。
それによって私が呆れるとか、見放すとか、引いてしまうということは絶対にないので、とても言いずらいことも言えるような間柄になることが理想です。

と、お仕置き観はこんな感じです^^

死と向き合った時

自分の死に関して向き合った人は多くいると思いますが、余命的な事、死の宣告、またはそれに近い形で死への恐怖と向き合った人は少ないでしょう。

例えば、癌と診断され、余命を告知された人の絶望感は計り知れませんよね。
癌に限らず余命宣告、不治の病、病気の潜伏期間中等様々で、自分ではどうすることも出来ない病気があります。
周りができることはその心境を想像して同情し、明るく元気付けることしかできません。
しかし、そんな空気は相手にはバレバレで余計気を使わせる結果になってしまうようです。
ただ、そんな死と向き合った経験のない人はその未知の恐怖を自分に当てはめて空想するしかなくこれは仕方のないことですが。

もし今、自分がいきなり余命宣告されたらどういう心境になるか想像してみてください。
死までの道のりをどう生きていくか、どうやってその恐怖を克服するのか。
このように考えるだけで普通の生活がどれだけ幸せだったのかを感じさせてくれるのではないでしょうか。
今まで自分がしてきた些細な事も素直に反省し自分を見つめなおすことも出来るのではないでしょうか。

なんでこんな話をするかというと、実は私は2年ほど前に死と向き合ったんです。

余命宣告をされたわけではなかったのですが、私自身は死を前提に考えていました。
きっかけはあったのですが、ある部分が痛み、1年ほどいろいろな整形外科や整体に通っていたのですが、全然治らずにいたんですね。
その中で、ある整形外科に行ったときに「捻挫ではないと思う」といわれその分野に詳しい医師を紹介してもらいました。
詳しく調べてもらうと「腫瘍が骨を蝕んでいる」ということでした。

その時は頭が真っ白でしたね。
手術をして腫瘍を取り出して病理検査をしてみないとその腫瘍の正体がわからないとのことでした。
すぐに手術の予定日を決めたのですが、その日以降ネットを駆使してその部分にまつわる病気を調べてました。

まあ、嫌な情報ばかりで絶望しましたね、良くても切断、それでも再発の可能性は高い、通常の症例だと死みたいな感じでした。
初めは向き合うことはせず、しつこいほどネットで調べていましたが結果は悪い方向ばかりでしたね。
もうその時は自分が死んでしまうということが信じられず、間違いではないのかと必死に命をつなぐ情報を探していたような気がします。

しかしいくら探してもどうにもならず、見ないようにしていた死を、見なければならなくなってしまったんですね。
で、やっと死と向き合うことにして、死を受け入れ、これからのことを考えてみることにしたんです。
私の場合、人と違っていると思うのですが、死を受け入れた瞬間からそれまでのモヤモヤ感や恐怖感がなくなったんですね。

それよりも死がいつか分かっていた方が自分の整理したいことができ、やり残していた事もできる。
それってすばらしいことだなって思うようになったんですね。
それは、急な病気、交通事故や災害等の不慮の事故で死ぬ場合と比べれば、とりあえずの自分のしたいこと、しなければならないことを完結できると思ったからです。

その時に初めて自分が死と向き合った時に自分がこうなるんだと知り、そしてそれは自分が想像していたものと違っていました。
余命告知とは違ってまだその前の段階なので、全然アマアマではありますが、私自身は必死で、それと同じように捉えていました。
その事がきっかけで心境の変化もありましたね、より人を優しく見ることができるようになったような気がします。

死の狭間で苦しんでいる人、心の闇と葛藤している人、精神的に苦しんでいる人の傍にいたいと思うのは前からあったことですが、このことがきっかけでさらに強まりました。
痛みを分かっている人でないと分からないことっていうのがあって、それは本当に繊細な部分ですがそういうところでの心の共有をしてあげたいのかもしれません。

身の回りの整理と格好のいいことを書いていましたが、なんといっても一番気になったのは「お道具類」でしたね。
私の場合、エロい本やビデオ系は一切ないのでその部分はいいのですが、道具類はそのまんまですからね。
スパの道具もあればSMの道具もあるし、大人系の物もあるし・・・、死んだ後にいろんなものがでてきてしまうのは恥ずかしい限りですからね^^;
みなさんも気をつけましょう。

ちなみに手術で腫瘍を取り出し病理検査をしたところ良性の腫瘍だったため、一安心でした。
その後病院には通いましたが再発の心配はないようで、とりあえずその後異常がなければもう来なくていいということになりました。
ま、おかげでいろいろと人生や生き方に対して向き合えて良かったのかもしれません^^;

キーの資質やきっかけ

お仕置きに憧れを持ってしまう皆さんはそれぞれお仕置きに興味を持ったきっかけというものを何かしら持っているようです。
なんとなくという人でも、そういう光景を見ていたことで何かを感じたといいます。
また、全く覚えがないという人でも必ずお仕置きシーンをどこかで見聞きしているはずです、そうでなければ「お仕置き」という言葉もお尻ペンペンのお仕置きのイメージもわきませんからね。

だいたいは昔テレビでみたお仕置きシーンが心のどこかに残っていたり、絵本で目にしたり、親や先生にお仕置きされたり、目撃した経験が心の奥底に残っていたりという感じですね。
そしてその記憶に残っているお尻叩きに愛情や温かさというものを感じ、それを求めてお仕置き行為に憧れを持つようになっているようです。
特に今まで叱られた経験のない子にはその愛情表現は未知の世界でもあり、叱られることで自分を真剣に見つめてくれるので愛情を感じられると思ってしまうのでしょう。

叱られた経験がない子。
そのほとんどは基本的に真面目な良い子ちゃんです(良い子ちゃんの振りも含む)
悪いことをして大人の目を引きたいと思っても、勇気がなくて思い切った悪さが出来ません。
例え勇気を振り絞って悪さをしたとしても、それはたいした悪さではなく、周りの大人達は普段の真面目な姿を見ている為、それくらいいいだろうと叱ることを見過ごしてしまうのです。

そして反抗期という思春期にも、ろくな反抗をせずに真面目に我慢して過してしまう子もいます。
通常は親や先生に反抗をし、悪さをし、叱られ、それを繰り返します、それによって心が成長していくものです。
家庭環境にもよるところもありますが、髪を染めてみたり、おしゃれをしてみたり、親や先生に少なからず反抗しているという心の抵抗は精神健康上、必要なことです。

真面目な人たちはそういう悪さをしている人達にある意味自由という羨ましさを多少なりとも感じているものです。
そして悪さをしても大人が真剣に構ってあげている姿を見て、愛情を映し出し、羨ましく思うんです。
そういう幼少期の記憶が大人になってもなかなか消えず、何か悪さやだらしないことをしたり、完璧にできなかったりしたときには叱られたい、お仕置きされたいと思ってしまうのでしょう。
ほとんどの人が幼稚園から中学生くらいまでにはそのような自分を自覚してるようです。

また、そういう子達の多くは、真面目な為、親や先生のいうことにきちんと従ってしまいます。
それはいいことのように思えますが、実は子供のころは必ずしもいいとはいえないんです。
反抗をして自ら行動するというのは、自主性を磨いていることになるからです。

そういう悪いことが出来る子達は、叱られることはよく分かっていてその上で自分で判断を下して、自ら行動をするんですね。
社会人になって生きていく面で、判断力や行動力は重要なことです。
それを幼少期から叱られながらいろいろ模索していくうちにリーダーシップを取れるようになったり、結果出世をしたり経営が出来るようなしっかりと決断できる人物になっていくことにもつながります。

逆に親の言いなりに育ってしまうと、自主性がなく親の指示がないと決断できない人間へと育ってしまいがちなんです。
そういう人は自分の判断を必要としない雇用人として真面目に仕事をこなすという道を選ぶことが多いんですね。
結局親のいいなりに育つということは、自分で物事を決めて自分で行動をするという行為が正しいのか間違っているのかが判断できないことにつながるんです。
そういう能力にかけてしまう危険性が非常に高いんです、だからこそ判断を仰ぐようなお仕置きに憧れてしまうんだと思います。

幼少期に無意識に反抗し、良い事と悪い事の区別を把握するというもことは必要なことなんです。
それができないと自分で決めたことに不安を持つようになり、優柔不断になり、何が正しいのか、これでいいのか、そういうことを他人に相談しないと決断できなくなってしまう傾向にあるんですね。
仕事の面では向き不向きとして片付けられますが、これが日常生活になるといろいろと弊害が出ます。
自分で判断しなければいけないことはたくさんあり、子供が産んだら余計に負担を強いられることになるんですから。

また過保護に育てられた人でも同様です。
これはいい子で真面目とはちょっと違いますが、何でも許されて受け入れられてしまうことで社会に出たときのギャップに絶えられずに苦しむケースが多いんです。
親は愛情があるから過保護にしているわけですが、子供にとってはその価値観が違うんですね。
叱られない子供は叱られることに深い愛情を感じ、悪いことをしたらしっかりと叱ってほしいと願うものです。

ところが過保護の親はそれを理解できず、子供の悪さという信号を勘違いし、叱ることを拒否し、本当の愛情を与えることをしません。
何をしても許されてしまう虚しさ、そういう幼少期を過すと叱られたい欲求が大きくなります。
周りの叱られている人に対して大きな愛情に包まれていると憧れを持ち、私も愛情を持って叱られてみたいと願うようになるのでしょう。

他にもドラマやアニメなどを通じて憧れを抱いたりしますが、根底にあるものは愛情を感じたいということなんだと思います。
自分の存在を認めてくれ、きちんと見てくれて、きちんと叱ってくれ、正しい道に案内してほしい。
悪いことしたらお仕置きをして悪いところを直してほしい、それをお尻叩きのお仕置きという形で表現し子供のように叱ってほしいというのが真理ではないでしょうか。
それによって構ってほしい、存在を認めてほしい、甘やかしてほしいと願い、愛情で満たされたいのだと思います。

お仕置きを望む人の殆どは、お仕置きのときは子供返りをしています、そうすることによって日常のストレスから解放され、更に悪さや反省に対しての罪悪感から解放されるのだと思います。
お仕置きの後はすっきりとし、明日から頑張る何かが芽生えるようです。

子供にとっての悪戯は大人たちに相手にしてほしいという信号なんですよね、大人になったらそんな信号は出せません、だからこそ自分の中で反省部分があったらそれに対して叱ってほしい、そう願うのでしょう。
それがお仕置きと結びつくと欲求が膨らみ”お尻ペンペンされたい”と直球に考えてしまいますが、根底にあるものはこういうことでしょう。

原点を見つめなおす。
人間にとって、これはいつまでも必要なのだと思います。
お仕置きやお説教に対して敏感な子たちは無意識にそれを理解している。
お仕置きに興味を持ってしまう子はそう捉えると、とっても偉い子達だと思いますよ^^

勝手にスパ講座 最終回 「キーとM(マゾ)の違い」

スパとSMのややこしい関係 勝手にスパ&SM的講座、最終回は「キーとマゾヒストの違い」について考えてみたいと思います。

キーやカー、スパ、SMについてが分からない人は用語説明をご覧ください。
スパ用語、SM用語を簡単に説明してあります。

一般的にキー=マゾヒストと認識しがちですが、これがまた違うんです。
どこが違うかというと、これは捉え方によっても違うのですが説明したいと思います。

まずマゾヒストは屈辱感、被虐感、羞恥、痛み等により性的興奮を得る性質があるのです。
支配され、奴隷や人形のように扱われたり、からかわれたり苛められたり、言葉責めされたり、恥ずかしいことをされたり、そういったことを快楽と認識し心地良さを感じたり興奮したりするものです。
この全てに当てはまるのではなく、どれか一つでも当てはまっていればMといってもいいかと思います。

羞恥心を煽られ言葉で虐められることで性的興奮を得る、例えそれ以外のことには興味がなくても立派なマゾなんですね。
マゾといってもいろいろな嗜好があり、とくに支配感を求めるマゾはどんな命令でも従いたいという気持ちがあり、総称してMは何でもあり的な目で見られますが、それは一つの例で、Mが全てそうかというとそんなことはありません。
要は虐げられることによって少しでも性的興奮を感じるかどうか、それが被虐欲であり、マゾということです。

主従関係を例にとると、支配されることは受け入れることであり、パートナーのどのような理不尽な命令も従わなければならないという被虐感により興奮し、それが達成できたことに更に喜びを感る人もいます。
達成できない場合は躾と称してお仕置きがあり、そのお仕置きでも自分をおとしめて自己陶酔することもあります。

屈辱を味わうにはやはり性的苦痛が一番なのでどんどんと究極を求めるようになってしまうのでしょう。
そのような屈辱を味わい、拘束され鞭に打たれ言葉で罵られることにより絶望を感じ心の全てを解放するということを望むことがあります。
それをどう操るかがサディストであり、調教であり、絶望の後の安らぎの与え方で信頼関係はより深まります。

ちょっと難しいですかね、かなり一方向に話が進んでしまいました(汗)
これもマゾの嗜好の一つということは理解してください。
いろいろなマゾがいるなかで、ここまでのマゾは少数派かもしれませんね(汗)
マゾとは精神的な奥底の部分なのでとても複雑でそれを伝えるのは難しいです^^;

一方キーは性的興奮の為のお仕置きは望んではないんですね。
甘えたい、構って欲しい、見ていて欲しい、褒めてもらいたい、導いて欲しいということが前提にありますが、駄目なことは駄目としっかりとお説教で叱られ、お仕置としてお尻を叩かれ、終わった後にフォローをしてもらうということで愛情を得ているんですよね。

自分自身をしっかりと見てほしいと願うのは、それは愛情がないと出来ない行為なので、それによって大事にされている、愛されていると実感したいというのが深層心理の中にあると思います。
結局お尻叩きの行為は痛いし嫌なのですが、お仕置という行為に惹きつけられている為、それがなければ意味がなく、結局愛情を求めて満たされるにはお仕置きが絶対に必要になって求めてしまうのです。

今の若い子はアニメやドラマ、小説などでお仕置きを目撃する事が多いと思いますが、全てに共通していることは親から子供、教師から生徒への深い愛情から来るお仕置きなわけなのでそれを見てその主人公は愛されているのだと感じてしまい、それが自分に向けられていく事が多いと感じます。

またアニメ以外でも小中学生のときに悪い子達は先生に構ってもらえ叱ってもらえ真剣に向き合ってもらえます。
それに対して羨ましいという憧れを持ちつつ成長して行き、幼少期に得ることのできなかった叱られることへの欲求が膨らみ、叱られることを望む結果になるわけです。
だから性欲ではなく真剣に向き合ってもらいたいという甘えの部分であり、これは人間なら誰しも持つ承認欲求でもあるんです。

ただお仕置き時にお尻叩きされることにより性的興奮をするならばこれはマゾの部類になると思います。
性的快楽の為にお尻叩きを望み、その手段として悪いことをして説教されお仕置きをされるのであればそれはマゾです。
流れはスパのキーかもしれませんが求めている先が性欲の部分なので立派なマゾでしょう。
性的快楽のために悪いことをするという設定からのスパンキングは、動機が既にSMであり、マゾヒストの考えであるからです。

Mとキーを区分けしているのはそこの部分が違うからだと思います。
ただ、そこらへんが曖昧になって履き違えているキーさんも結構多いので誤解されてしまうのでしょう。
それはそうです、誰しも最初はお仕置きに惹かれる時点でMだと思うでしょうし、もともとM要素が少しでもあればわけがわからなくなるからです。

私が感じるスパのキーさんは性的興奮を目的としていないんですね。
もちろん小説や動画などを見る時は性的に興奮してしまうでしょうが、実際に人と会ってお尻を叩かれている時には性的な興奮はしません。
痛い痛い、嫌だ嫌だの心境です。

自分自身の戒めの為や、自分自身を罰する為であり、優柔不断な自分を正しい道に導いてほしい、悪いことをしたらきちんと叱ってくれる人がほしい、それが本来の目的であり、その罰がお尻ペンなんですね。
口で言っても結局は繰り返してしまうので厳しくお尻叩きで罰し二度としないように躾けてほしい。

それが前提にあるのだと思います、ただ叩かれる場所はお尻で、そこはいつのまにか脳裏に埋め込まれてしまい、どこかで目にしたお仕置き像なんです。
そこに至るまでには幼少期の体験がかなり多く影響しています。
そこらへんのキーの資質については次回に書いていきたいと思います。
自分に自信がなかったり、存在を認めてほしかったり、構ってほしかったりと結局は甘えたいということが深層心理にあるんです。

よく相談があるのですが「私はキーなのかMなのか」と悩んでしまう原因があります。
それはお説教してお尻叩きをしていると性的興奮をしているわけでもないのにアソコが濡れてしまうからです。
キーさんにとってはそれは自分でコントロールできないのでとても恥ずかしくて見てもらいたくない部分なんですね。
まぁでもほとんどの人はそういう反応が出るわけで、私はそれを気にするなんてことはありません。

この体の反応はどこからくるのかというと、性的な刺激や性的な事を考えてのことではなく、憧れていたお仕置きを実際に体験していることで満たされていることによるものです。
性的なことで興奮しているのであればそれはMの捉え方です。

キーさんは幼少期からお仕置きシーンにドキドキし、それがきっかけでお仕置きに惹きつけられ、お仕置きの小説や動画などを見るようになるのですが、その時は少なからず性的興奮があるものです。
しかしお仕置きの内容は性的な事があってはならず、性的な事がないからこそ興奮できるんですね。

でもそれは小説や妄想の世界だけで、実際にお仕置きを受ける際は性的興奮などはしません、それはそんなことは求めていないからです。
とはいっても普段からそういうシーンをドキドキしてみている関係で体が勝手に反応してしまうといったほうが正しいかもしれません。
私も何人もキーさんをお仕置きしましたが、性的に興奮している人はいませんでした(本当はしている人もいたかもしれませんが)

そして濡れてしまうのは脳内の反応なので、勝手に脳が勘違いして普段見ている小説や妄想している時と似たような反応をしてしまい"濡れる"という形になってしまうんですね。
脳って結構そういうところは鈍感な器官なんです。

「キーなのにどうして体が反応してしまうの?」と落ち込んでいる女性はもう悩む必要はありませんよ。
カーはそこで性的興奮として捉え、それを煽るような発言をしてはいけません。
カーとしては禁句なんですね、それでキーさんは一気に興覚めしてしまいます。

それと相手と知り合ったばかりだと羞恥心が強く出すぎて濡れてしまったり、お仕置き初心者だと濡れやすかったりしますね。
また、男性の前でお尻を出す行為は性的な事をするわけじゃなくても恥ずかしくてエッチに感じてしまう人もいるので、そうなると体が誤反応してしまうこともあります。

同じドキドキ感で似ているため脳のほうで勘違いしてしまうことがありますから、濡れてしまっても何の問題もないです。
まぁ確かに恥ずかしいのかもしれませんが、それも全て受け入れてくれる相手、こういうことを理解してくれる相手だとすべて身を任せられるのではないかと思います。
濡れるのは決して感じているわけでもなく、マゾというわけではないので安心してください^^

で、マゾとキーの徹底的な違いは性的快楽を求めているか求めていないかの部分だと結論付けたいと思います。
それに加え、被虐感を求めているのならマゾであり、そうでなければキーだといえると思います。
その深層心理の部分では微妙なところもあると思いますが、考えかたとしては明らかに違いますよね。
9割がたキーだけど1割Mという人もたくさんいますし、その割合は人それぞれなのでそこはM要素があってもスパのお仕置きを求めているのならあまり深く考えることはしないほうがいいと思います。

また、恋人同士の俗にラブスパと呼ばれている行為を好むのは”キー”ではなく”マゾ”であり、SM行為だと私は思っています。
恋人同士のエッチありきのスパはSMです。
ただ、お仕置きの後にエッチをしたらSMかというとそうではありません。
お仕置きをして反省をしてそれが全て終わって、仲直り的なエッチであればそれはSM行為ではないですよね。
カップルがセックスするのは別にいいと思いますが、お仕置とは別物だということは絶対で、切り替えという事が一番大切です。

それと根底にある精神的なものはキーもマゾも同じかもしれませんね。
それは自己表現であり愛情を求める行為であるとかそういう部分です。
自分の居場所の一つであり、安らぎの場所であることには違いがありません。


最後になりましたが、
5回にわたり初心者向けに大雑把な方向性を書いてきましたが、自分の嗜好を再度見つめなおし、自分の性癖や求めているものを再認識してみてください。
これらの違いは明らかな違いですが、実際は些細な意識の違いなんです、だから自分の立ち居地がいまいちよく分からないんですよね。
結局5回とも同じようなことの繰り返しを説明してしまいましたが(汗)

このように極端に結論付けたのも、自分の求めているものを分かりやすく判断してもらう為だったんですね。
安らぎを求めて入り込んだ世界で傷つき不安定になる女性が多くいます、ほとんどがそうなのかもしれません。
まずは自分を守ることを覚えてください、そして安らぎの世界で傷つくことのないようにしっかりと自己防衛する術を身につけてください。
大変に難しいことですが、私が書いた記事からヒントを見つけ役立ててくれればと思います。

勝手にスパ講座 第四回「カーとサディストの違い」

スパとSMのややこしい関係 勝手にスパ&SM的講座、四回目は「カーとサディストの違い」について考えてみたいと思います。

キーやカー、スパ、SMについてが分からない人は用語説明をご覧ください。
スパ用語、SM用語を簡単に説明してあります。

私は「S」同士の交流は過去にありましたが、「カー」との交流がないんですよね、だからはっきり言って「カー」がどういう嗜好なのかよく分かりません。「S」ではなく、あえて「カー」と名乗って区分けをしている以上、Sとは違う、もしくはカー要素のほうが強いと考えているのでしょう。

なお、このブログでのスパについてはSMとはっきり分けている為、性的快感を得るような気持ちでのスパンキングはSM行為としています、ご理解ください。


これまでスパとSM、キーとカー、サドとマゾについて書いてきましたが、スパがディシプリンである以上、カーは自分の価値観を押し付けたり性的要素を少しでも感じさせてしまってはいけないと私は思います。
まぁそういう家庭も学校もあることはあるんですけど、それは子供の為といえないと思っているので。
教育的躾の為にする行為がディシプリンであり、お尻叩きのお仕置きなんです。

毎回持ち出しますが、分かりやすい例が、親と先生です。
この親と先生は躾の方法として体罰をしているわけであり、叩きたいから叩いているわけではないんですよね。
叩きたくないけど、体罰によっていい方向に向いてくれればという思いで叩いているんです。
なので理由もなく、叩きたくて叩く加虐嗜好を持ったサドであってはいけないんですね。

しかし今のスパというものはキーとカーは「お尻を叩きたい人と叩かれたい人」という解釈になっているのでそこからねじれて真相が見えなくなってきているような気がします。
お尻を叩きたいならそれは加虐嗜好をもった立派なサディストなんです。
本当のカーは「説教好きで一人の人間を良い方向に導き、成長させたい」と考えている人なんだと思いますよ。
他人に対して何の見返りもなくそんなことができる人なんて殆どいないでしょう。
でもぶっちゃけそんなことをいっていても始まらないのでそこんところは少し目をつぶっちゃいましょう(笑)

まあ、お尻を叩く行為をしたいと思っている時点で殆どのカーはサディストが少しは入っていると思います。
それはそれで仕方のないことです、お尻を叩いて興奮してしまってもそういう性癖であれば仕方ありません。
でも、ここが大事なところですが、カーと名乗る以上、お尻叩き以外の行為をしてはいけません。

カーの違和感でもある”加虐嗜好”はどうしても抑えることはできません、でもその感情とそれ以外の部分はコントロールはできるはずなんですね。
そういうカーであれば少ないけどまだ人数はいると思います。
まぁ根っからのキーから比べるとはるかに少ないと思いますけどね。

結局カーとサディストの違いは何なのか、カーという考え方が一般的にどこから来ているのか。
カーという位置づけが定まってはいないのでよく分かりません。
それは本人にしか分からないことだし、S要素のないカーがいるのかを突き止めたところでしょうがないのかもしれませんね。

本当のカー、本当のサディストなんてそれぞれの意識の問題であって本人が認識していればいいと思うんです。
ただ何故こういうことを突きつめているかというと、そこまで自分のことを知っておかないといいパートナーとめぐり合えないからです、結局はその二人で作り上げていくのがスパであり、SMであり、それらに決まった形などないんですよね。

結論的にはカーと名乗るならばサディストの部分を相手に見せてはいけない、そしてそれさえ見せなければカーとして成立するのではないでしょうか。
性的要素はもちろん出してはいけません、性欲を煽るようなお仕置きもしてはいけません。
あくまで相手の成長を願うという愛情でお説教しお尻叩きのお仕置きという罰を与え、アフターフォローをしっかりする。

それで満たされるのがカーであって、それで満たされなければ長続きはできません。
私は精神的な部分を探求したいので単なる加虐したいだけのサディストとは違い、性的な部分はスパのお仕置きに求めていないのでスタンダードなお仕置きなんて簡単にできますけど、そうでなければカーのほうが精神的に疲れてしまうのではないでしょうか。
ま、本当に純粋なカーさんって難しいのかもしれませんね。

SMでのサディストであればもう好き勝手やればいいんです、相手を苛め、辱め、征服し、それで満たされて喜ぶだけですからね。
ただそこにはしっかりとした相手もそれを求めていなければ成立しません。
愛情がほしいMさんには愛情を与えたいサディストが合うでしょうし、愛情がない関係を求めるMさんにはそういう形を好むサディストが必要です。
どちらにしても興味がなければ長続きはしません。

ただ、やはり人間ですからいくら自分勝手がサディストとはいえ、そこの根本的な部分の愛情だけはしっかりともち、相手を思いやれる気持ちを持って関係を持ってほしいものです。
ま、言葉も含む性的虐待行為で性欲を満たされるのもサディストですけど、相手の心を傷つけてそれでよしというのは私は好きではありません。

結局はカーでもサディストでも、そしてキーでもマゾヒストでも構わないでしょう。
それをスパの行為に出さなければスパのお仕置きとしては成立するわけですからね。
意識の持って行きようで全ては変わるからです。
でも自分の求めているものや方向性を曲げていたら長続きしないことは明らかです。

だから基本的なことを押さえて、それをお互いに確認した上でパートナーにならないと、すぐに別れてしまったり、依存してから捨てられたり、途中で違和感が生まれたりと様々な弊害がおきて傷つく結果となります。
そうならない為に、探し方や付き合い方のヒントをここから得てほしいと思います。

実は本当のスパとか本当のSMとか、そんなものは存在しません。
二人の心の隙間を埋めあう行為であれば、そして十分な愛を感じられればいいんです、それが本来の目的であって一番大事なことなんですから。
そしてそうなる為にみんな苦しみながら彷徨っているんですよね、
だからこそ初心に戻り、原点を見つめられるように、この世界に何を求めているのかを再確認してほしいと願います。

勝手にスパ講座 第三回 「カーとキー、サドとマゾの関係性」

スパとSMのややこしい関係 勝手にスパ&SM的講座、三回目は「カーとキーの関係性とサドとマゾの関係性」です。

キーやカー、スパ、SMについてが分からない人は用語説明をご覧ください。

まずはスパのキーとカーについてです。
補足ですが、性的要素の一切ない、純粋な根っからのキーとカーについてですからね。

何回かお話していますが、純粋なキーはたくさんいるのですが、純粋なカーは殆どいないのではないかというのが私がいつも感じている事です。

SとMは支配関係で成立しますが、キーとカーはかなり複雑です。
たしかにお仕置きのときはカーが支配をしているのですけどね。

まず性的要素のない純粋なスパというものの根本はディシプリンであり、簡単にいうと子供に対しての教育的な体罰、いわゆるお尻叩きをすることを指すんですね、悪いことをしたら罰を与える的な。
これは相手の価値観ではなく一般的の道徳的な価値観での教育が基本です。

そしてここで違和感を感じるのは子供はお仕置きを望んでいないということです。
しかし大人になってからは違いますよね、自分から望んでお仕置きを受けに来るわけです。
でもこれは子供ではなく大人だからと私は解釈しています、自分の悪いところを指摘され、それを直すためにお尻を叩かれたい。
悪いことをした罪悪感を取り除く為に叱られたい、そしてそれらを繰り返さない為に自らの意思でお尻叩きを望むという真面目な大人の考えがあるからだと感じます。

更に突き詰めると、親や先生がする躾という概念から考えるとカーは本当はお尻を叩きたくないはずなんですね、その子に良くなってほしくて、それで仕方なく教育としてお尻叩きをするのが根本だからです。
でもスパの世界のカーというのは一般的にお尻を叩くことが好きな人なのでこの時点でまた違和感が生まれてきます。

まぁ私の場合はお尻叩きが好きだからカーさん的なことをしているわけではなくて、精神的な部分を見たいから、そして本当に悪いことに対して罰として痛い思いをしてほしいからという理由であって、本当はお尻じゃなくても罰を与えるのであればどこでも構わないんですね^^;
ただキーさんの要望はお尻叩きなのでお尻を叩いているというだけのことです。
なので悪い事がない限り罰を与えたいとは思いません。

それと実はスパの世界は、キーが全て支配をしているということなんですね。
あくまで私の考えですよ。
カーは奉仕者でしかありません、キーの要望に応えて叱ってあげ、方向性を見出してあげて、戒めの体罰を科すわけですから、お尻叩きのときだけは支配関係があっても実際は違うんですね。
その奉仕者という一面が私は過去に違和感があり、嫌であった部分でもあるんですけどね。

こう考えると叩くのが好きなのがカーではなくて、その人のために親身に叱っていい子になるように躾る事が好きで、本当は叩くのが嫌いなのが本来のカーなんだと思います。
ま、例を大人が子供にするお仕置きに例えるとこうやっておかしくなりますね(笑)

大人になるとお互いにお仕置きを求めあっているから引き寄せあうのであって、キーがはお尻を叩かれたい、カー側はお尻を叩きたいが当然なのですが、キーさんは「お仕置きは嫌だけど叩かれたい」という設定だとしたらカー側は「お仕置きはしたくないけどいい子になってもらいたいからお仕置きをする」という形をとらないとカーとカーが成立しないでしょう。
本当の意味で親と子のお仕置きを表現すると設定の上ではこのような心持ちとなり、そこをカー側がそういう気持ちでお仕置きが出来ているかでキーさんの満たされ度も変わってくると思います。

しかし実際はお尻を叩くことによって性欲を満たしたいと思うカーさんは多いですし、数は少ないですが、キーさんもお尻を叩かれて性欲を満たしたいという人もいるので、やっぱりそこがお互いに合っていないとキーとカーの関係性は難しいんですよね。

またカーによっては性的なことをしたくてスパの世界に入ってくる人がいます。
性的なことをしてくるカーが多いとキーさんからよく聞きますが、それは目的が違うからなんですよね。
カーが性欲を抑え続けられず性的悪戯のような行動をしてしまったり、それができなそうだから自ら離れてしまったりするようです。
結局女性が傷つく結果になり誰も信用できなくなり、救いを求めていたはずなのにどんどん悪い方向に落ちていってしまうんですね。

だからキーとカーがパートナーとなることは違和感が生まれやすくてうまくいかないことが多いんだと思います。
お互いの嗜好は違っても男側が会いたいからと嘘をついていたら女性側はわかりません、それだけ複雑な関係性なんですね。
お仕置きを求める事って子供心には殆どない事だしお尻を叩きたいと思うことも本来のお仕置きとは違ってきますよね、結局はその矛盾点を修復して違和感が出ないように意識を切り替える事が必要になってきます。
キーの心理、カーの心理を読み解くと親子間のお仕置きが無理があると思いがちですが、ただ、カー側の意識の持って行き方次第ではそれは成立します。

それは私が性的欲求がなくお仕置きに取り組んでいるのでよくわかります。
私が求めているものは精神的な部分であり、相手の心を知り、良い方向に導いてあげたいという思いからです。
もちろんそこに悪い事があれば罰を下したくなりますが、なければ叩く行為は必要なく、話をするだけで満足なんです。
そういうつながりを求めているので私を必要としてくれる人には魅力や愛着が湧き、なんとか助けてあげたいと親身になってしまうんです。


続いてSとMの関係性についてです。
S=加虐嗜好、支配欲 M=被虐嗜好、服従欲という意味です。
性的嗜好を持たない精神的な部分でのSとMも存在しますが、今回は性的なSとMについてお話します。

SとMの性癖は上記のとおりですが、この二人がパートナーとなることにより必然的に支配関係が成立します。
なのでS=支配するもの、M=支配されるものとなります。
支配したい人と支配されたい人というのが正しいでしょうか。

サドは加虐したいわけですからそれをどう表現するかなんですね、私の考えですが、人間として一番屈辱的なことをすることが最大の加虐となるわけですからそう考えるとやはり性的虐待となるのではないかと思います。
精神的に最も嫌なことを相手に強要し、受け入れさせる。

どんな理不尽な命令でも受け入れさせ、行動させ、それによって支配感を味わう、その一つが躾であり、落ち度があればお仕置きという形になるんです。
もちろん落ち度がなくても調教という名目や叩くプレイという形をお仕置きと表現することもあります。

この逆がマゾであって支配されて追い詰められたいので、恥ずかしくて嫌なことでも感じてしまうんですね。
痛みで感じてしまう人は上級者レベルですが、ほとんどのMさんは痛いのは痛いのでそれを快楽と感じることはありません。
ただ、痛みで苦しんでも打ちのめされている自分に陶酔するということはあります。
まぁちょっとハードな事を書いてしまいましたが、手加減すればソフトSMとなりますから、初心者でも興味があればその世界には簡単に入れます、相手の手腕次第ですが^^;

まぁ加虐だからといって暴力というわけではなく、怪我のないように手加減をし、その代わり精神的な部分で更に加虐感を煽ることする人もいますね。
怪我をするようなことを望んでいる人いません、鞭や緊縛等は精神的に加虐し、追い込むための一つの道具でしかないんです。
俗に言うハードなSMというのはそういうことを繰り返しやってきた人たちだけのものなんです。
何でハードになるかというと人の欲求には限りがないからなんですね。

欲求が達成できても次にそれと同じレベルでは満足できない、だからもう少し踏み込むみたいな事は日常でもありますよね、それと同じことなんですね。
最初は超軽め、次は軽め、その次はもうちょっと厳しく、その次は・・・・と繰り返していくといつの間にかハードになっているみたいな感じです。
だからパートナーになったばかりでいきなりハードということは、相手がそれを望まない限りしないのが普通です。
徐々に痛み具合を大きくしていく、自分好みのMにしていくことが調教と呼ばれている行為です。

よくSMは痛いから嫌だという人がいますが、痛みがなくても加虐、被虐は出来ます。
そういう人にはお尻ペンだけでもいいんですね、そのお尻叩きによって、肉体的に反応し、それによって更に精神的に感じることができるんです、だから痛くないSMもあり、叩く行為は精神的高揚を煽る一つの方法として認識されるとSMの理解も少しはできるのはないかと感じます。
そしてそのサジ加減を見れるのがSなんです、きちんとした知識を持ったSならば加減が分かるんですね。
サドとマゾの関係性はお互いの求めている根本が合致してるのでパートナーとして成立しやすいと思います。

ちなみに、ソフトSМと呼ばれているのはより軽い加虐と被虐です、それが羞恥責めであったりラブスパであったりで、無意識ですが、厳密には加虐と被虐の関係として知らないうちに成り立っているものなんです。
だから私から見ればハードもソフトも根本は一緒なんです。

ブログを書いてみて最近思うことは、自分を見つめることが出来るってことです。
こういうことを分析していくと自分のことも気が付くんですね。
どういうことかというと、私は日常では奉仕者なんだと、そしてそれを喜びとしているところ。
精神的に悩んでいたり、落ち込んでいたり、様子がおかしかった知り合いがいると必ず声をかけ話をしています、
そこで相手の気持ちを理解し、客観的に話をし、アドバイス的な物の考え方、いろいろな方向性を話してヒントを与えたりしています。

これは決して偽善なんかではなく、本心からです。
まあ、その本心が問題なのですが、何度も書いていますが、私は人の心の闇にとても魅力を感じてしまうのです。
不謹慎ですね^^;
そしてその闇って信用した人にしかカミングアウトしないわけでそれを告白してくれた嬉しさもあります。
何事もなく生活していて数ヶ月してから「あの時はありがとう」といわれた時には私の言動により救われたのかという満足感があり、自分を必要としてくれたことにより私の心の中の隙間に物足りない何かが埋まったような気がします。

だから悩み的なことや間違ったことを正すようなものであれば性欲無しに出来るし、奉仕もしたいと思うようになりました。
実際は奉仕は嫌なのですが、深く考えてみると奉仕そのものだったんです(汗)
奉仕の見返りはやはりその人それぞれの心の闇を覗くことや、信頼してくれることです。
悩みも心の闇ですからね。

過去はSという自意識が強く、奉仕なんてプライドが許さず毛嫌いしていたのですが、それは非日常の自分であって奉仕的な自分を否定したかったんでしょう。
こう考えるとなにか新しい道が切り開かれたみたいな感覚になってしまいます。
だからこそディシプリンスパの性的な事のない家庭的なお仕置きがしっくりとはまっているんだと思いました。

また話が脱線してしまいましたが、こんな感じでカーとキーの本来の関係性とSとMの関係性とは全く違います。
難しいのですがこう考えたらどうでしょうか、
キーとカーは日常生活で親と子供のような関係性であり、SとMは非日常であり、性癖を満たすために加虐と被虐、もしくは性欲を満たす関係である。

人は性欲を持っていても子供をお仕置きするときに性欲を満たすことはしません、でも性欲はちゃんと持っていてちゃんとその処理はしています、それが非日常です。
スパのお仕置きの本当の目的が仮に性欲だけだとしても、それは心に留めておいてお仕置するときにそれを表に出さなければお互いに納得のいく関係は維持できると思います。
それが出てしまったら関係は続かないでしょう。

前記事と同じような事を書いてしまっていますが、結局はお互いの関係性は意識の持って行き方なんです。
それを双方確認し合っていれば問題のないことです。
ただその意識のもって行き方によってスパ的関係にもなりSM的関係性にもなるってことです。
この根本を理解したうえで自分のこと、自分の求めているものを探す判断基準にしてみてください^^

勝手にスパ講座 第二回 「お尻叩き」

スパとSMのややこしい関係 勝手にスパ&SM的講座、二回目は「スパのお尻叩きとSMのスパンキングの違い」について考えてみたいと思います。
キーやカーなどの簡単なスパ用語はこちらをご覧ください。


スパっていうのはご存知のとおりスパンキングの略語なんですよね、スパンキングというのはお尻叩き、お尻ペンペンの事をいいます。
だからスパのスパンキングはスパンキングのスパンキングとなってしまいちょっとおかしいのですが、この言葉こそがややこしくなる原因なんだと思います。

それでは本題に入ります。
まずディシプリン派のスパのお尻叩きは躾けによる体罰の事をいいます。
親や先生が行う教育的な指導のための体罰で、虐待的な体罰ではありません。
大人がお仕置きを受けるのには自分の悪いおこないを誰かにお説教をしてもらって叱ってほしいというのが前提にあります。
また、不安な自分、寂しい自分、優柔不断な自分を見つめていて欲しいと望む気持ちも含んでいるものです。

その前提の上で二度と同じ過ちをしないようにという思いを込めてお仕置きを望むのです。
お仕置きの痛みは恐怖です、痛くて辛いことです。
だからこそ意味があり、同じことをしてしまったらまたお仕置きされてしまうという気持ちから自分を立て直していきます。
他にもお尻叩きで罰せられることにより、罪悪感が解放され心がスッキリすることもあります。

でも深層心理では構ってほしい、甘えたい、見ていてほしいというところがあるので、無意識に悪さをしたりしてしまうこともあります。
そうなるとお仕置きされたくて悪さをしているんじゃないのって思われてしまいますよね。
そこの部分がSMに通じるところがありMと誤解されやすいのではないでしょうか。

でも無意識に構ってほしくて悪さをするのは子供がそうであるようにSMを求めているわけではないのです。
大人になるとそういうことを意識できるようになるので「私は変じゃないか」「おかしいのではないか」「Mではないか」と悩む種になります。
しかし、大人も子供も同じで、結局は構ってほしいという甘えの部分の欲求や過去叱られてこなかった人の叱られる憧れという部分があるだけで正常な心の動きだと思います。
ただ少しだけ叱られることへの欲求が強いだけ、それがお尻ペンペンとの融合で相乗効果でドキドキしてしまうんでしょう。


で、SMのスパンキングもスパ同様に躾けによる体罰もおこないます、そしてSMの世界は広く深いのでSMのスパンキングの中にはスパのお尻叩きの要素を全て含みます。
そして教育的な躾もありますが、Sの価値観を受け入れさせる躾もします。
それだけにとどまらず様々な性癖が錯綜してなんでもありなのがSMの世界です。
なのでいくら性的要素や快楽のない純粋なスパのお仕置きをしようとしても一般の人はどうしてもそれを”SM”と判断してしまうのはその為です。

でもやはりお仕置きを受ける側の意識は全く違います。
被虐要素の強いMさんは、人形や物として自分をおきかえたり、存在意義を否定され絶望感を感じたり、支配されている喜びを感じたり、苛められ叩かれている悲惨な状況の自分に酔ってしまったりと、そういう感覚でスパンキングを受けることが多いでしょう。
スパンキングを求めるほとんどのMは痛みを快楽と感じたり、痛みを我慢している自分自身に感じたりしています。
また、SMのスパンキングには羞恥的な性的なスパンキングも含まれます。
恥ずかしい行為を我慢させるのもお仕置きであり、性的で嫌な部分も全てお仕置もきだからと片付けてしまいます。

そうなると、スパのスパンキングはSMのスパンキングの一部なの?
となりがちで、そこでまた誤解が生まれる原因なのですが、やはり区分けは必要だと感じます。
なぜかというと、それだったら家庭や学校での体罰はSMプレイの一部ですか?ってなるからです。
そういうことになってくると本当に体罰がなくなるのかもしれませんが、でも気持ち的に全く別物ですよね。
スパの中でもラブスパとか叩くだけのSM的なスパとか快楽を求めてのスパとかをする人がいて、そういうものがあるからまたまたぐちゃぐちゃになってしまうんですよね。
だから性的な要素のあるラブスパはSMとして認識していくほうがいいと思います。

ということで勝手に結論を出してしまいます。
躾としてのスパのお尻叩きは性的要素を含まない、お説教がありお尻叩きがあり、アフターフォローのある成長の為のものです。
なお、お尻を出して叩いたり立たせたりというのは日常にあるものなので性的要素としません。
つまり親と子供間での日常にある光景のお尻叩きを躾としてのスパのお尻叩きとします。

それとスパでもお尻を叩いて楽しむ遊び的なスパを好む人もいます、それも性的要素がなくスパなのですが、やはり親から子供にする躾としてのお仕置きとは全く違うものですよね、それもややこしい原因です。
まぁスパは全く趣旨の違う2種類のお尻叩きがあるということになりますね。
そしてそれ以外の性的要素やいじめ、虐待的なスパンキングをSMのスパンキングとします。

まぁ、ぶっちゃけていえば、スパ趣味の人でもSMプレイをしたっていいんですよね、キーとカーはスパの世界とSMの世界を分けたがりますが、その中でもきちんとしたお仕置きの後にSMプレイをしている人も必ずいるわけで、くだらないこだわりを捨てて”これはスパではなくSMだ”と、認識をしていくことが大事なことなんだと思います。
要は意識の問題で、叩く側も叩かれる側もその意識の持っていきかた一つでスパ的でありSM的となってしまうということです。

そもそもキーとMは別物であってどちらか選ばなければならないという事はありません、キーであってMな人もいますしキーであってMじゃない人もたくさんいて、それはどちらでも自然な事です。
そもそもSMは人の性の部分なので孤立しているんです、躾としてのスパは性ではないので全くの別物ですが、意識の持っていき方の違いなだけなのでそれはダブってもいいものなんですよね。

女性であれば出会いは簡単です、でもこれらの認識のずれは必ずあるものです、特に弱い立場の女性側には重要な要素となりますのできっちりとした区分けこそ一番重要なのだと思います。
特に初心者のキーさんにはこの記事を通して自分自身の再認識、スパとSMの微妙な線、スパの種類等、そこらへんの敏感な部分を感じ取ってくれれば幸いと思います。

とにかく純粋なスパを好む人が誰しも思っていると思うのですが、スパ=性風俗というイメージが定着してしまっていること、本当にそれは悲しく思います。
なんて人間は勝手なんだ、他人のことを深く理解してあげようとしないのかと虚しくなります。
こんな世の中だからこそ苦しくなるんですよね。

スパは性癖だと考えてしまいがちですが私は性癖という表現はしたくありません。
ただ人より真面目で、叱られることに憧れを持っていたり、叱られることで自分を維持できたり、前向きに生きれたり、心が安定したり、そういう欲求が強いだけなのだと思います。
子供のころに見てしまったお仕置きシーンが脳裏から離れないからこそお仕置きを通じてそれらを満たしたいと思ってしまうんでしょうね。
つまりこれは人間ならば誰でも持っている承認欲求であると私は確信しています。

スパに関してはそれをエッチな目で見てもらいたくないというのが純粋なキーの訴えでありますが、当然ですよね。
不器用で、ストレスも溜め込み、自分をどう方向付けていいか分からず、正しい道を教えてもらいたくて、間違っている自分を正したくて、、、
日々葛藤している人、苦しんでいる人がいることは事実です。
そんな子達をおとしめるようなふしだらなイメージは余計その子達を苦しめているんですよね。

まぁ大人がお尻を出してペンペンなんて、それはなかなか言えないでしょうけど^^;
とにかくそういう人たちの内緒の居場所はここにもあることですし、そういう人はたくさんいるので気にしないようにしましょう。
こういう後ろめたい気持ちからくる悩みや他の事でも心の闇を抱えている人は本当に切ないですね。
私はそんな不器用な生き方しか出来ない人たち、闇を抱えている人に魅力を感じるんです。

それがカウンセリングとお仕置きで多少なりとも満たされるのであればどんどん利用すべきだと私は思います^^

勝手にスパ講座 第一回 「スパとSMのお仕置きの違い」

「スパとSMのややこしい関係 勝手にスパ&SM的講座」と題して二つの関係性の違いを考えてみたいと思います。
キーとかカーとか、スパ用語等が分からない方はこちらを参照ください。

スパとSMは違いますが、捉え方は人それぞれなので曖昧になっていますよね。
そしてごっちゃになっているからこそに弊害があり誤解も生じてきます。
まず、ここでいう”スパ”は性的要素が一切ないものをいいます、つまり親が子供にするお仕置きって性的なものは一切ありませんよね、それがここでいう”スパ”です。
ラブスパなど、性的要素が少しでも含まれるものはSMと定義づけていますのでご了承ください。

講座内容ですが、

1、スパのお仕置きとSMのお仕置きの違い
2、スパのお尻叩きとSMのお尻叩き(スパンキング)の違い
3、カーとキーの関係性とサドとマゾの関係性
4、カーとS(サド)の違い
5、キーとМ(マゾ)の違い

この5点について精神的な違いを分析してみたいと思います。


第一回目は「スパとSMのお仕置きの違い」です。

これらはですね、全てごっちゃになってしまっているからややこしくなってくるんですよね。
ごちゃごちゃしているのは区分け自体の捉え方や感じ方が違うため、結局はその人がどう感じるかになってしまっています。
しかし、それによってパートナーとの違和感が生じて望んでいないことをされてしまうこともあります。
そういうこともあり、ちょっと考えてみようと思いました、そして自分の立ち居地をよく把握できていない方々のアドバイスにでもなればと思います。

純粋なスパのお仕置きは簡単にいうと親や先生的な人が子供を躾けるために行う体罰のようなもので、そこには性的なことは一切ありません。
間違っていることを直し、正しい道へと導くのですが、それは道徳的に間違っていることであって親や先生の価値観を押し付けることとは違います。
虐待ではなく、愛情を持って叱り付けて反省させ、直させる行為なんですね。
まぁ反省したかしないか、直るか直らないはまた別として、悪い事をしたらその罰としてお仕置きがあり、スパのお仕置きはお尻叩きということになります。

この行為を俗にいうディシプリンといいますが、このディシプリンという言葉もややこしくて、SMもある意味ディシプリンと表現することもあり、同じ言葉なためごっちゃになってしまうんです。
ディシプリンとは躾け、教育、体罰というような意味でヨーロッパの方では最近まで躾としてのお仕置きは日常のことでした。
親や家庭教師、先生等が行うわけですから当然のことに性的な意味は全くないんですよね。

普通に考えてみても、お仕置きのときに子供のお尻を丸出しにして興奮していたずらしてしまう父親、母親なんていないでしょう。
そういう考え方をしてくれると分かりやすいと思います。
それが一般的で正当なディシプリンで正当なスパのお仕置きだと私は思っています。

キーさんは基本的に何か悪さをしてしまったことに罪悪感を覚え、それを吐き出したくてお仕置きを望みます、お仕置きを望んでいるから吐き出したいということもありますが^^;
または自信のない事、駄目な自分を叱って欲しい、構って欲しい、ずっとそばで見ていて欲しいとも願っている人もいます。

だからキーさんは必ずしも痛い行為を望んでいるわけではなく、その痛みがあるから自分のいけないことに向き合い、そして二度と過ちを犯さないと約束でき、精神的な心の安定のためにお仕置きを求めているんです。
例え同じことを繰り返してしまっても本質的な部分は痛みを求めているのではない人は多いです。

私の実践しているスパのお仕置きとは、悪いことに対してお説教を通じて、それはいけない事だという理由を理解させ、罰としてお尻を叩き、反省できたら許し、全てを受け入れ甘えさせることです。
そこには前向きに生きることへ活力を与えたり心の癒し、心の安定などがあるものです。

スパのお仕置きは人間としての成長の為の躾でありたいと私は思っています。
マイナス要素で追い詰めたり、被虐や自虐を求めるようであれば、それは精神的にはSM行為ということになってしまうでしょう。
それはそれで全然いいんですけど、一応区分けをするならのお話しです。


対してSMのお仕置きは支配者対服従者の関係で、躾としてのお仕置きもあれば理由のない体罰もありです。
痛みや被虐感を求めているので家庭的なお仕置きとは雰囲気が違ってきますし、性的な事を含むケースがほとんどです。

まず最初に意識の違いというものがあります。
SMのお仕置きはいじめる事でもあって、Mは被虐願望や自虐感をもっているのでそれを求めます。
また、SMののお仕置きはスパと同じように道徳的に間違っていることもお仕置き対象ですが、一番の違うところはSの言う事が聞けない場合、それが全てお仕置き理由になってしまうこともあります。
そういうケースはSが理不尽なことをいっても受け入れなければならないので、Mは奴隷的な立場という関係性になります。

性的奴隷というのが人間として一番の屈辱でもあるので、Sは性的要素を含むお仕置きを中心に考えます。
人として最悪の性的奴隷に落としめ、自分の価値観を押し付けることによって支配関係を維持することに満足感を得て、M側も支配者に服従し、性的奴隷というみじめなことをされることで被虐感が満たされるという人もいます。
Mだからみんながこういうことを望んでいるわけではないのですが、SMのお仕置きとしてはこのような感じになっていくでしょう。

それとSMのお仕置きはお尻叩きに限定されず、さまざまな箇所を叩くのはもちろん、叩く以外にも拷問のように責める場合もあります。
そして叩く以外に恥ずかしめたり、性的なこともお仕置きとなります。
性器をあからさまに露出させたり性器や乳房に触れたりすることは性的なお仕置きでSMだと思っているので、ラブスパのような前戯的なものは私はスパではなくSM行為の部類だと思っています。
スパの中にディシプリンスパとラブスパという相反するものが混在しているから根っからのキーさんは迷惑していることもあるでしょう。

こういうことからスパとSMのお仕置きは全く違うんです。
仮にスパのように愛情のあるお仕置きをしていたとしても、道具の種類、言葉遣い、叩き方、叩く箇所、雰囲気などによっては性的な事がなくてもSM的な雰囲気になってしまいます。

お仕置きのとき縄で縛られたらどうですか?服を着ていたとしてもSMっぽいですよね。
言葉遣いが命令口調で乱暴だったらどうですか?
服を着ていなかったりバスローブや下着姿だったらどうですか?
そういう雰囲気一つでSM的となってしまうので、本当に意識の差というのは大きいところでもあるんです。


スパの場合、これも例えの話ですが、子供を例にとります。
子供によってですが、叱られてお仕置きを受けるときに泣きながら駄々をこねて素直に謝らないことがありますよね、お仕置きだからこそいやだいやだして逆切れして。
結局自分がした悪いことの代償を払わなければならず、痛みという罰がくだされます。
反省したかしないかは人によりますし、心では反抗しているけど反省した振りをしているなんてことも普通にあるでしょうけどね^^;
お仕置きが終わったらケロッとしてまた親や先生に生意気な口を聞いたりふざけたりしちゃいますよね(笑)

だからこれも実は支配関係なのですが、支配というよりも管理という言葉の方が近いかもしれません。
自由があるので完全なる支配ではないからです。(虐待の場合は完全支配ですがここは省きます)
親や先生は子供を管理して、悪いことは愛情を持ってきっちりと叱る、良かったことは褒めてあげる、頭を撫でてあげる、それが躾けであり正当なお仕置きだと私は思っています。

それに対してSMのお仕置きはSが絶対的な支配者であるから駄々をこねたら更に酷い責めにあうことになります。
お仕置きが終わった後に解放させる一つの手段として抱きしめて頭を撫でたりする行為もありますが支配関係がある限りMはSを小馬鹿にしたり生意気なことをいったりはしません。
それはSの前では絶対服従だからです。
お仕置きという共通の言葉で表現されていても、このように明らかな違いがあるわけだから違和感も生じてくるんですよね。

ということでいきなり結論ですが、
性的なことを含まないお仕置きがスパ(お尻を出すのは性的なことではありません)
性的なことに加えて、暴力的、拷問的、虐待的なものが含まれるのがはSM
こう結論付けようと思います。

俺達が違う!という人もいるかもしれませんが、勝手に線を引かせてもらいました^^;
実際性的要素のないスパのお仕置きとしてSM的なお仕置きをされている方もいます、それは精神的なものを求めてのお仕置きであって、そこには性的要素は一切ないんです。

このような線引きは必要なことだと私は思います。
みなさん”お仕置き”ときいたらどんな想像をしますか?
なぜだかほとんどがSMとか性的なことを想像するでしょう。
でも小さい子供に”お仕置きするよ”っていうのを聞いたらどうですか?
性的要素なんて想像だにしないと思うんです。

私はいくら大人相手でも人間にとっての心の維持に必要な、このお仕置きという言葉を浸透させていきたいんですよね。
どうしても大人になってお仕置きというと後ろめたい感じになってそれがアブノーマルになり性癖と考えてしまう。
そうではなくて純粋にお仕置きとは人間を成長させる手段であって自分のためにお説教や罰を受けて甘える行為なんです。

コミュニケーションツールとしてもいいでしょうし、一般的なカウンセリングと同じような意味合いでもいいでしょう。
痛みを求めていたり、お仕置きを求めていても、そこには必ず心を埋める何かを求めているはずです。
何かわからなくてもお仕置きによってそれが埋まり満たされればそれでもいいと思っています。
そこをよく理解して自分自身を受け入れてほしいと思います^^

スパ用語、SM用語の説明

簡単なスパ用語、SM用語の説明です。
実は私自身簡単なスパ用語はわかっていますが、専門的なスパ用語は説明を見ないとよくわからないところがあります^^;
オーバーザニーとかベンドオーバーなんて特にそうなんですが、わからないのは実際にはそんな用語を使う必要はないから覚えようとしないんですね^^;
それにスパ用語を使うと私のしたい本気のお仕置きがプレイ的になってしまうので避けている面もありますね^^;


[キー]
スパンキー=お尻を叩かれる側(お尻を叩かれたい人)


[カー]
スパンカー=お尻を叩く側(お尻を叩きたい人)


[スイッチ]
キーとカー両方できる人


[お仕置き]
悪い事をした時の罰


[スパ]
スパンキングの略=お尻叩き
※しかし本来”スパ”はスパンキングの略ではなくディシプリンスパの意味であって欲しいと願いたいのでこのブログでは”スパ”をディシプリンスパと解釈しています


[ディシプリンスパ]
躾けのためのお仕置き(性的要素を含まない)


[ラブスパ]
ラブスパンキングの略=前戯的なスパ、性行為の一部として行うスパ、性的要素を含むスパ


[オーバーザニー]
ひざの上でのお仕置き(Over tha knee=OTK)


[ベントオーバー]
机や椅子、ソファーやベッドに手を付いたり寄りかかってお尻を突き出す姿勢をとること
本来は腰を曲げたり屈んだりしてお尻を出す姿勢全てを指すことなので様々な体勢や姿勢が存在し、それを様々な呼び名で表現することもありますがここでは省きます


[コーナータイム]
お仕置きの後の更なる戒めのために、真っ赤になったお尻をさらけ出したまま立たせ反省を促す行為


[ハンドスパ]
素手によるお尻叩き


[セルフスパ]
自分自身で尻を叩く行為


[パドル]
ヨットのパドルから考案された正式なお仕置き道具で主にアメリカで使用されている


[ラタンケイン]
ラタン=籐(とう)は椰子科の植物でジャングル等に自生している
その素材で作られた正式なお仕置き道具で主に欧州などで使用されている
籠や家具にも使用されている


[バンブーケイン]
バンブー=竹の一種
竹の素材で作られた正式なお仕置き道具で主に欧州などで使用されている
とても硬く、ラタンと比べしなりがない為、お仕置きのダメージはかなり強い


[鞭]
イギリスのパブリックスクール等で実際に躾の為に使用していたお仕置き道具


[その他のお仕置き道具]
トゥーズ、クロップ、フロガー、スラッパー、ウィップ等


[身近なお仕置き道具]
定規、布団叩き、ハエ叩き、靴べら、ブラシ、ベルト、しゃもじ、スリッパ等


[M/m/F/fについて]
M=Male=大人の男性 (m=少年)
F=Female=大人の女性 (f=少女)

M/F=カーが男性、キーが女性のスパンキング
F/M=カーが女性、キーが男性のスパンキング
M/M=男性同士のスパンキング
F/F=女性同士のスパンキング
M/f=カーが大人の男性、キーが少女のスパンキング
F/m=カーが大人の女性、キーが少年のスパンキング

その他組み合わせは様々です






SM用語

[S]
サド=サディスト=加虐嗜好=支配したい人


[M]
マゾ=マゾヒスト=被虐嗜好=支配されたい人


[SM系ディシプリン]
BDSM(ボンテージ、ディシプリン、サディスト、マゾヒストの略)=主従、躾け、拘束、束縛等々


[主従]
主と家来、主人と従者、ご主人様と奴隷


[調教]
パートナーや奴隷を自分好みに躾たり育てること、快楽を教えこみ開発すること


[緊縛]
縄で体を縛り拘束すること、手足を使えないようにしたり吊るすこともある
後で痺れが残ったりして危険性があるため最低限の知識は必ず必要


[低温蝋燭]
SMプレイの場合低温蝋燭を使用する
普通の蝋燭よりも低い温度で蝋が溶けるため火傷する危険性が低くなる
使用方法を誤ればあまり意味がないこともある

※SMプレイには様々な用語やプレイがあるため細かいことはここでは省略します

キャバクラ、ガールズバー好きな男達

キャバクラとかガールズバーが好きな男ってかなりいますよね。
そんなお話をしようかと思います。

しかしあれって何でなんでしょうかね?
女性には理解できないのではないでしょうか、実は私にも理解できません(汗)
まあ、女性との接点が全くない環境で、お金を払ってでも話がしたいというのなら分かりますが、でもそうでない人が多いのではないでしょうか。

男同士での飲み会があると必ず二次会はキャバクラに行こうっていう人がいるものです。
私の場合はせっかくたまに会って酒を飲んで話をしているのだから、くだらない話でも楽しいし会話していたいんですよね。
だから私はキャバクラの話になると必ず反対をして居酒屋に行こうというのですが、みんなはたまに会って飲むんだから女のいるところにいこうとなってしまうんですよね。

結局キャバクラに行くことになると私も行くのですが(笑)
そうなると男同士の会話なんてネタ振りみたいなものはあるものの、ただそれだけで会話ができません。
みんな女の子に夢中になって勝手に盛り上がって終わっちゃうんですよ。
私もせっかく来たわけだから一応は楽しみますが(結構楽しんでいるかも!?)
本音をいうとキャバクラ系のお店は嫌いです。

働いているホステスには興味があり、好きな部類だと思います。
何が嫌いかというと、本音が見えないところなんですね。
お客様だからと気を使い、盛り上げ、嫌なことも笑顔で接し、興味ないことも共感し、本音を出さず嘘を嘘で塗り固めています。

これは仕事なのでホステス自体は立派だと思いますよ、私が言いたいのは男のほうなんですね。
何が楽しいのでしょうか?
そんなにちやほやされておだてられて嬉しいのか、お世辞や笑顔なんて本気だと思っているのだろうかって。
私は過去、水商売をしていて、女性が女の部分を出して客を引き寄せる術を教育していたほうなので余計敏感なのかもしれませんが。

逆に、私は水商売の女性とプライベートで友達として会話するのは凄い好きです、彼女達はいろいろな経験をしてきているし人間観察にも長けている、精神的な分析も鋭いので楽しいんですね。
でも客で行くとそういう会話はできません、できたとしても薄っぺらいもので全く楽しくありません。
結局お店に行ったらホステスは客の話を聞き、共感したり自分の意見を言ったりし、笑顔で受け答えをする。
これじゃカウンセラーですよね。
金額が高いのはサービス料ですから、実質はお酒とつまみで2000円、カウンセリング料5万円みたいな感じですよ(笑)

酒とつまみを原価で払い、最後に「僕と会話してくれてありがとう」と5万円くらい払う。
大げさにいうとそんな感じですかね・・・。
いくら常連になって親身になっていたとしても一線はあるわけで、その一線が私は嫌なところなんですよね。
しかしその一線があるから楽しいとか、その駆け引きが楽しいという人ならばそれでいいと思いますけど私には向きませんね。

キャバクラやガールズバーを越えてクラブまでいくと、これは見栄みたいのが多いのではないでしょうか。
俺はこれだけ稼いでいるみたいな、そしてそれを部下にもホステスにも見せ付ける。
ま、分からないでもないですがやはり人柄が一番なので見栄は虚しいだけですよね。
キャバクラではなくメイドカフェ系も同じことがいえると思います。
あんなので盛り上がれるのが不思議でオモシロでやっているのならわかりますが本気な人もいますよね?きっと。

でも実は私、メイドカフェに行きたいんですよ~(笑)
好奇心ですよ、ただそれだけです。冷めているので一人では絶対に行けません。
誰か行きたい人がいれば経験者未経験者に限らずいきましょう(笑)
いきたいというのは、本当にあんなくだらないことをやっているのか確認したいんですよね、テレビでしか見たことありませんが、本当にあそこまでなりきってできるのか見てみたいです、人間観察として。

脱線してしまったので話を戻します(汗)
しかしキャバクラは擬似恋愛とよく言いますが、女性にはまってしまい借金をして首が回らなくなったり、会社の金を横領したりする人を私は結構見てきました、哀れですね。
外国人系のフィリピンパブ系でもよくある話です。
フィリピンの女性って一途なのではまりやすいのもありますけどね。
そうはいっても、周りが見えなくなってしまっては大人として失格です。

キャバ嬢の中の一部には、「指名のために」「常連になって引くに引けなくて」「好みのタイプだから」という形で肉体関係を持つ女性もいますが、そういう光景を男側が耳にしたりしているから自分もいけると思って通ってしまうのでしょうか。
関係を持つと男って自慢げに言いふらすんですよね、中には本気の恋愛もありますが、殆どはそうではありません。
キャバ嬢を落とすのが趣味の人もいますが、そんなに金をつぎ込んで中身を知らない相手と関係を持って何がいいのでしょう、見栄や自慢のためでしょうか、まぁそれはそれでフェチなんでしょうね。
でも相手の本音が見えないのに付き合ってもなんの面白味がないと私は感じてしまいます。

本音を語ってくれるということは今の私にとって嬉しく、心の隙間を埋めるものの一つなんですね。
だからキャバクラのような仮想空間的なものが余計馬鹿らしく思ってきます。
仮面をかぶったり演技をしたりする接客業であるキャバクラやガールズバーなどの水商売、そして風俗業も含め、私はその人間の本質が見えない限り全く興味がわかないんです。
だから女性のいる飲食業や風俗店が嫌いなんですね。
でもそこで働いている女性とのプライベートでの会話が凄く好きなんです。

私が男としておかしいのかもしれませんが、世の中の男たちの心理がわかりません(汗)
お金で心を買うみたいなのが無償に嫌なので、そこも関係しているのかもしれません。
でも男たちはみんな楽しそうにしていますよ、若い人も管理職の人たちも。。。
女性の皆さんが知らない管理職の顔があります、きっとびっくりすると思いますよ^^;

スパ的な毎日 お仕置きブログ 精神と心の部屋

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プロフィール

京介(きょうすけ)

Author:京介(きょうすけ)
初めまして、京介(きょうすけ)といいます。

スパといわれている世界ではいわゆるディシプリン派の”カー”という存在らしいです。
そしてお説教やお仕置きは私の日常です。
私の普段の言動や行動がスパでいう”カー”というものに似ているだけなので、スパという”作られた世界”の住人である意識は全くないんです。
それくらい日常的にお説教やお仕置きをしているってことです(笑)

お説教や相手との対話については私の中では”心の安定でありカウンセリング的な心のケア”と認識しており、お仕置きの中で一番重要視していることです。
相手の理由や言い分をしっかりと聞いた上で、客観的に「何故直さなければならないか」という説明をし、納得をさせる事がお説教と位置づけており、お仕置き後のアフターフォローとしての対話を含め、イメージ的にはカウンセリングのようなものです。

なので私はこじつけの理由ではなくリアルな理由でしかお説教やお仕置きはしません。
そしてお説教とお仕置きはセットでなければ意味はなく、更にお仕置き後のアフターケアがないと成立しません。
私のお仕置き基準は「他人を不快にする行為、約束を破る行為」について特に厳しく接しています。

お仕置きでの関係性は親と子供的なものです、それをコンセプトに全てが成り立っています。
つまり相手とはある意味対等な立場であり、私が命令口調で話したりすることもありません。
また、教師と生徒的のような上下関係の立場から物事を矯正するということも好みません。

このような上下関係のあるお仕置きは恐怖心により支配しているものでもあり、自尊心を傷つける場合もあるので親子間での愛情のあるお仕置きとは全く別物と認識しています。
こういう考えなので親子的でもあり友人的な立場という立ち位置が一番しっくりきます。

ここに至るまで、過去私はSMという世界を体験しました、SMの世界といったら大げさなのですが、最初はS的な欲求を満たすために足を踏み入れたのですが、どんどんと精神的な心の部分を追求するようになっていきました。
そうしているうちに”人間の心や本質”をもっと追求したくなり、そうなるとSMに何かしらの違和感もでてきて、その違和感を解消しようと模索した結果、スパといわれている今この場所にたどり着いたのです。

その違和感を簡単にいうと、SMは性的なお仕置きや理不尽なお仕置きがまかり通っていたり、性欲を満たすのに貪欲すぎるところです。
もちろんSM的な事は面白みはあるので、性欲のはけ口としてはいいのですが、性欲以外の部分を満たすためにはちょっと物足りなかったんです。

そんな中、キーさんと関りを持つことで心地よさを感じ、私の求めていた精神的な世界を見つけたって感じなんですね。
スパの”カー”からSMの””に移行する人ってたくさんいますが、私はその逆バージョンみたいな感じなんですね(笑)
SMの精神的な部分の究極を追求した結果、スパといわれている世界にたどり着いたので、過去の体験があるからこそ今の自分があるんだと思っています。

このブログを書き始めることになったきっかけですが、それはお仕置きに興味がある若い女性が結構いる事を知ったからです。
真面目に苦しんでいる人達を私の言葉により一人でも救ってあげれたらなという気持ちで書いていこうと思いました。
そういう人たちと出会い、関わっていきたいと思ってブログを書こうとなったんです^^

こういう世界に入り込んでしまう人は、幼少期に目撃してしまったお仕置きシーンがいつの間にか脳裏に焼き付いてしまい、いけないと思っても頭から離れないケースや、親子関係の確執や養育環境であったりと、何かしらのきっかけがあるものです。
みなさんは揃ってお仕置きの事を考えてはいけないと頭から消そうとしますが、脳裏に焼き付いてしまったキー気質は消し去ることはできません。

ではどうしたらいいのか。
どうにもならない欲求をなんとかしたいなら、経験して欲求を薄めることに限ります、勇気をもって経験することで欲求は薄まり、お仕置きのことばかり考えてしまって支障が出ていた日常生活も回るようになるものです。
欲求を解消する方法は欲求を満たすしかありません。

ここでは、悩みや闇を抱えている人はもちろん、欲求や思いを吐き出し、このブログを通じて自分の居場所を見つけ、少しでも心の安らぎを感じて欲しいと思っています。
そういった精神的な部分を私は一番大切にしています。

お仕置きに憧れを持つことは、叱られる愛情や甘える事を求めているからともいえます。
ドキドキしたりするのは、自分の求めていた愛情が受けられる、甘えられるという妄想で、それが無意識に反応してしまうだけです。
全ては無意識で起こる深層心理下での心の動きなんですね。

そしてこんな風に思える人は決して叩かれたいだけではないはずです。
なのでこの家庭的なお仕置きに対してSMのような概念は捨てて、客観的に自己を見つめる為に必要な、ある意味健全な事と解釈しましょう。
他人には言えなくても、ここはみなさんが本当の自分を出せる心の解放の場であり居場所でもあります、そして人生において成長の場と捉えれば必要な場所にも変わってきます。
なのでスパという概念も捨てて、客観的に自己を見つめるためにお仕置きに関わる、という意識になることがとても大切なことだと思います。

こんな感じの私ですが、様々な人達を見てきていますのでどんな内容でも私が引いてしまうことはありません。
みなさんそこが心配なようですが、世の中の裏も表も悪い人もいい人もいろいろと見てきましたし、そもそも人間は弱い生き物なので、人をだましてしまったり殺めてしまったとしてもそれを聞いてドン引きするようなことはありません。
人としてどうなの?ということだとしてもそれを話してくれたことに私は親身さを感じてしまう性格なんです。

また、私は概念や雑念に捉われません、客観的に受け止めますので共感は強くしますが、同情のようなことは基本的にすることはありません。
なので悩みや相談がありましたら気軽にしてください。
どのような立場の方でも個人情報を漏らすことは決してありませんのでそこは安心してください。

自分の満たされない思い、満たされたい思いをお仕置きを通じて体験してみましょう。
体験は若ければ若いほどいいです、歳を重ねると欲求を薄めていくことは難しくなり、どちらにしても卒業しなければならない必要性が出てきます、いつまでもパートナーがいるわけではありませんからそうなると心が苦しくなるだけですからね。
若いうちに体験しておくと卒業もしやすいですからそういう意味でも急ぎましょう^^

何度も言いますが、お仕置き欲求をなんとかするにはお仕置きを経験することです。
欲求が消えることはありませんが、薄めることは可能です、ネットでの出会いとなりますが、約束事はしっかりと守っていますので、勇気をもって連絡してみてください。

京介

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