人のせいにしてしまう心理

すぐに人のせいにしてしまう人っていますよね。
私はまず人のせいにはしないタイプなので、その違いってどういうところからくるのかなって少し考えてみました。
性格が悪いと一概にはいえないですし、病んでいる人や鬱っぽい人がそうなる傾向があることもあるしで前から気になってはいました。

私の場合ですが、どんな失敗であってもどんな黒歴史だろうと、どんなにネガティブな事でも、それは他者が介入していても自分の責任において起きたことだし、それによって必ずプラスの材料を拾う癖があるので、人のせいにするどころか、”あいつのおかげ”と思うことが殆どです。
もちろん感謝の意味での”あいつのおかげ”ではなく、いい教訓になって経験値があがったという皮肉の意味ですが^^;

私はこんな感じですが、いろいろな人の話を聞いていると単純に物事の捉え方や考え方の違いとは違うように思うことがしばしばあったんですね。
人のせいにしてしまう”癖”はあったとしても、それが性格というのも少し違うようにも感じます。
ちなみ冗談で”人のせいにするのはコミュニケーションの一つでもありますからそれは除外して、そうではなく半分でも本気で”人のせい”にしていることを議題としています。

子供のころを思い出してみると”人のせい”にして叱られるようなことを回避するということは普通にありましたよね。
自分では背負いきれないからこそ他の人に責任をかぶせてしまう。
大人から見るとバレバレな嘘も多いですけどね(笑)
それがうまくいくと、誰かのせいにすれば助かるというようなことを無意識に覚えてしまい、自分で抱えきれないような時にその事実をすり替えることをしたりして、それが癖となってしまうことも有りうるでしょう。

ちょっと分かりやすい例を挙げると、子供が前日に「朝6時に起こして」と親に頼んだとします。
翌日親は6時に起こしたのですが、子供は二度寝してしまい大事な用事に遅刻してしまいます。
このうような場合、どういうことになるでしょう。

おそらくだいたいの子供は、遅刻したのを親のせいにして親に八つ当たりをして怒りをぶつけるでしょう。
「なんでちゃんと起こしてくれないんだ!」って。
まぁ家庭によっては親に反抗なんて許されないという家庭もあるので全ての家庭に起こりうるわけではなく、子供が親に甘えられるような一般的な家庭の例として捉えてください^^;

でもまぁこんなことはよくある話ですよね。
朝に約束通り起こしてもらったのですからあとは自分の責任ですし、それもわかっているはずです。
そもそも起こしてもらうこと自体ありがたいことなんですからね。

100%自分が悪いとわかっていながらも大事な用事に遅刻してしまう事実を受け入れられない。
自分を責めてみても苦しくなるだけなので、親のせいにして自分の辛さから逃れようとする心理なんですよね。
仮に自分の心が強ければ自分の責任だと思えるはずですが、追い詰められて余裕がないような場合は自分への怒りを他者に向けるしかなくなります。

これは辛さを解消しようとする心の動きといえます。
そういう癖がついたまま大人になると、それを親友や彼氏、旦那さんや自分の子供など、自分の甘えを出せる親しい人を対象として相手のせいにしてしまうことになりうりますが、これは単なる八つ当たりでしかありませんし、大人になったら通用しないことです。

そうはいっても普段人のせいにしない人でも自分一人で抱えきれなくなった時には人のせいにしてしまいがちですし、相手にそれを伝えなくても心の中でそう思うことは誰でもありますよね。
そうやって人のせいにしてしまうのは、負の感情を受け入れるだけの強さがない時で、つまり心が弱い時なんでしょう。

更にはどんな些細なことでも人のせいにしてしまう人っていますよね。
それが癖になっている人っていますが、普通なら受け入れられるような失敗や嫌な事にすら耐えられない、それはとても精神的に弱い人だといえると思います。

つまり心の弱さというのが”人のせい”にする大きな原因であるということだと思います。
だからこそ余裕のある時には人のせいにはせず、嫌な事を自分で消化できるんですよね。
本当に些細で自分で消化できるような失敗なら、人のせいにしないで自分の責任とするはずですからね。

ただ厄介なことは、人のせいにしてしまうのは意識的ではなく、無意識にそうしていて、それが自己欺瞞に陥りやすいので怖いんですね。
(※自己欺瞞とは間違っていると知りながら、正当化していくうちにそれが本当のように思い込むこと。自分の心をあざむいてくこと)
そして心を病んでいる人や精神的に弱い人に”強くなれ”といっても無理なので、そこは難しいですが、このような意識を持っているだけでも随分と変わるのではないかと感じます。

自分のマイナス部分を受け入れられない人は、人のせいにして回避しようとするので、そうであるなら依存型ともいえます
自分のマイナス部分を受け入れられる人は、人のせいにはしないので自己解決型といえると思います。
人のせいにした時点で成長は止まりますが、心が弱くなっている時は人のせいにすることで心を軽くして自己防衛しているので、それは自分を守るための手段としてしょうがないことだと私は思っています。
それが病気ということもあるでしょうし、病気じゃなくてもそれに相当するほどショックが強ければ一時的に心が弱くなってしまい、それはどうしようもないからです。

人は失敗を繰り返し、後悔したり、教訓にしたりして成長していくもので、私のお説教の根本はそこにあります。
精神的なダメージや金銭的損害、裏切りや失敗など、そこからは必ず人生においてプラスの部分があるはずなので、本来はそこを教訓とすれば心の成長につながるんです。

何でも人のせいにして失敗したという負の感情のままでいると、自身が成長するチャンスを逃している事になります。
また、人のせいにする人と一緒にいると、負の感情が移ってきますし、ましてや自分のせいにされるのなら、できるだけ一緒にいたくないと思いますよね。

それにマイナスなことを人にアピールし続けていると、どんどん人が離れていってしまいます。
最終的には友達も恋人もできず、孤立して生きていくことにもなりかねません。
私の場合はこの活動を通してそういった話は聞き入れますから私に対してはそのような事を言っても構いませんし、むしろそういった場所でもありますからね。

といってもマイナスな感情の捉え方や今後の考え方はアドバイスし、今は心が弱っていて無理でも、力がついてきた時には克服できるようにサポートするという気持ちで接しています。
人によっては心が弱り切っていて、アドバイスをも辛く感じてしまうかもしれませんが、私の活動はお説教してお仕置きをするということなので、そこは蓋をしておきたいところにも焦点を当ててアドバイスはしています。
その話は無理ということであれば触れませんけどね、そういうことでなければ成長に向けて話をしていきます。
それは、それがカウンセリングであり、お仕置きに通じた私のしたいことでもあるからです。

また、人のせいにしてしまう人は感情的になると攻撃的に相手を責めるようにもなります。
誰でもそんな人は相手にしたくないでしょうが、相手の立場になり、そこまでなるのには相当辛く、自分で抱えきれなく、心がとても弱くなっているということを理解してあげることをしてみると相手への見方が変わります。

その上で冷静に諭していくことが必要じゃないかと思います。
心が弱っている時には聞く耳も持てない、そういうことを知っていればいくら人のせいにしたり攻撃してきたりしても、とてつもなく心が辛いからそう解釈してしまうんだと思えます。

こういったことを考えていく中で、私も捉え方を変えて、相手の辛さをまず理解していこうと思うようになりました。
相手は喧嘩を売るというのとは違います、辛いから楽になりたい、辛さから逃れたい、そういう気持ちから無意識に出る行動です。
そういう人の思考回路を改善するためには自分を振り返ることができる心のゆとりが出来た上で、客観的に思考の歪みを訂正させて、自分の意識を変えていく作業が必要となります。

だいぶ長くなって少し小難しくなりましたが、結論は人のせいにする人は精神的に辛く、生き辛いんだということです。
私の活動はただ単にお尻を叩くだけではありません、それを目的に楽しむという趣旨でもありません。
悪い事の罰としてのお仕置きは成長のためのお仕置きです。
だからこそカウンセリングを重視にして、本当に直さなければならないことをメインにして、その為の罰がお尻ペンペンなんですね。

要望によってお仕置きをしていますから、その動機やスパに対する捉え方は気にしませんが、一応私がしたいことはリアルで悪い事、直さなければならない事、律したいことに対して真剣に向き合い、成長につながる、その為のお仕置きです。
人によっては遊びの延長線上でお仕置きを依頼する人もいますが、それはそれで要望なので構いません。
そうじゃなくて真剣に相談したい人や直したい人、そのことでお仕置きを受けたい人にはいいのではないでしょうか。

まぁ私もいろいろなことを考えて真剣に、親身にお仕置きを捉えているということです^^



当サイトへは下記よりお入りください。
PC版    お仕置きの部屋
スマホ版  お仕置きの部屋

生き辛さを感じている人

人に言えず、ずっと生き辛さを感じている人って意外と多いものです。
それは人に言えないからこそ周知されておらず、周知されていないから言いずらい、そんな悪循環が関係していることもあるでしょう。
その要因は様々ですが、それがずっと継続しているような人はとても辛いものです。

人より過敏に反応してしまう人は、辛いことがあれば人の数倍落ち込んだり、周りにイライラしている人がいれば我慢できないくらい嫌な思いをしてしまったり、相手の負の感情を些細なところから察知してしまうなど、人よりストレスを抱えやすいんですね。
周りの人に相談しても「気にしすぎ」と一蹴されてしまうので、自分が本当に辛いということを言えなかったり、自分が悪いんだと思い込んだりします。

朝が苦手でどうしても起きられないというレベルの人は、周りからはだらしないと言われ、起きる努力をしていないと思われてしまうので、「起きるのが本当に辛い」と訴えても、みんな頑張っているんだからと頭ごなしに叱られたり、相手にされなかったりという辛さを抱えているものです。

空気を読めない人、相手が傷つくことを悪気なしについ言ってしまう人、努力しても時間を守れない人、忘れ物や落し物が多い人、すぐにキャパオーバーになり同時に複数のことをできない人等は、人より努力してもなかなかうまくいかないので、人から否定され続けて自分をも否定し、とても生き辛い思いをしているものです。
周りからは普通の事なんだから普通にできて当然だとしてなかなか頑張っていることを理解してもらえません。
そして注意されても直すことが難しく、結果孤立したり、いじめられたりすることもあるでしょう。

思春期あたりから鬱まではいかなくても、なにやら気分がすぐれない、落ち込みが絶えず持続しているような人は、絶えず消えていなくなりたいと思ったり時には死んでしまいたいと思うこともあり、何年もに渡り軽いうつ状態でという人もいます。
鬱まで酷くないのでそんな自分は人より努力が足りないからだと自分を責めてしまい、誰かに相談することもなかなかできません。
周りにはプラス思考で考えよう、過去にとらわれないで前だけを見て行こうと言われますが、頭ではわかっていてもどうしても気持ちをコントロールできない辛さというものを抱えています。

また、排卵から生理が始まるくらいまでの期間に猛烈に落ち込みが激しくなったり、イライラしたり、変な事をしたくなったりという現象に苦しむ人もいます。
でも女性はみな生理を抱えているので我慢が足りないと思われてしまったり、どうにか乗り切るしかないと自分に言い聞かせて頑張るのですがみんながみんな同じ症状ではないのですが、それは症状が重い人にしかわかりません。
とてもとても辛い1,2週間を過ごす人は他の人は我慢できているという後ろめたさで相談できず、毎月のように苦しんでいる人もいます。

これらは異なった症状ですが、一つだけ当てはまるという人もいれば、全て当てはまるという人もいるはずです。
ここで問題なのはこれらの症状はとても辛く苦しいものなのに、普通の人はそれが理解できず、気にしすぎだとか大げさとか、努力が足りないとか、根性がないという言葉で片づけてしまうことです。

こういうことはあまり知られてはいないのですが、努力しても我慢してもそれができなかったり、我慢しきれないという人はいて、そういう人を受け入れる世の中ではないから生き辛く感じている人はたくさんいるんですね。
そういう人たちは人の2倍3倍頑張ってやっとみんなと同じようにできることもありますが、それを日々気を抜かないでやるわけですからそれはそれはストレスが半端なくかかり、とても疲れることなんですね。

みんなから孤立したくない、出来ない奴だと思われたくない、変な奴だと思われたくない、そういう一心で人の何倍も努力しているものです。
それを普通と同じようにできないからといって、不機嫌になって怒ったり、いじめたり、人格否定をしたりということが今の日本で起こっているからそういう人たちは辛い立場なんです。
まずは、真面目に努力してもできない人もいることを認知すべきで、そこは学校で教えないと周知されないことでしょう。
そして本人の話を疑わないで信用することです、本気でやる気のない人はわかりますし、そうでないのならそういったことが苦手だということを認識すべきだと思います。

私はそういった症状についてある程度の知識はあるので、そういう気質がありそうであれば受診することや参考になる本を勧めたり、薬の効能のお話ししたり、カウンセリング的にお話をしたりしていますが、本当に今までそれを理解してくれる人に出会ってないんだなぁと実感することが多いです。

病気や障害じゃない気質の人でも、心理的な部分をお話しするだけでもこれまでのことを整理出来たりスッキリしたりして、心が軽くなることもあるので、そういう悩みを抱えている方はお話を聞きます。
私はお会いするときは幼少期からのことをカウンセリングで聞いていくので、その途中に気になる点があったらそういったアドバイスはしています。

とにかくそういう自分の気質で、努力では片づけられないような人はちゃんと理解されないといけません。
間違っていることであればそれは理解されないでしょうが、そうではなく自身が頑張っているのならばそれは間違いではないんです。
以前「頑張り度の基準」という記事を書きましたが、人はどれだけ頑張っているかで評価すべきと私個人では思っています。

私たちの中には普通を超えた処理能力を持った人はいて、例は難しいですが、例えば日本人の殆んどの人が東大生くらいの知能を持っているとすれば今の普通の人たちはいくら頑張ってもできないので否定されるでしょう、それは普通の基準が東大生レベルであり、そのレベルのことがこなせなければ努力不足と判断されてしまうからです。
オリンピックに出るような身体能力を持っている人が普通だとしたら、今の普通の人たちは頑張っても身体能力はそこまであがらないのでそれも否定の対象でしょうね。

そういう立場になったらその気持ちがわかるのですが、そういう環境にないから頑張っている人たちを傷つけてしまうんです。
なにも努力しないで何でもできる人は凄いとは思いますが、その人以上に努力して頑張っている人の方を私は尊敬しますし、評価をします。
なので生き辛さを抱えている人は応援してくなりますし、その上で頑張ろうとしている人は好きです。
この世の中自体がそう思うようになっていけばと思いますし、人の資質を大事にすることを念頭におかねばと最近特に思います。

その中には精神疾患や何かしらの障害などもありますが、そうではなく、性格であったりその人の資質であったり、養育環境の影響であったりと様々です。
何も悪くないのに、または怠けていたからというわけではないのに、不利益な扱いを受けることは辛いでしょう。
そういうことで生き辛さを感じている人は少しお話しに来てみてください。
現実をみた厳しい話もすることはありますが、それでも少しは心が軽くなるかもしれません。

上記で書きましたが、生理前の落ち込みやイライラ、そういう症状を持っている女性は多いのですが、それをどう対処していいのかわからない女性が多いことに驚いています。
女性なのにそういった知識に乏しいんだと最近特に感じたので次回はそこら辺のお話をしていきたいと思います。
まぁこれも学校では教えられないことなのでわからないんでしょうけどね。(今の教育はわかりませんが)

なんかお仕置きと関係ないお話になってしまいますが、そういったメンタルのケアもお仕置きには必要な事ですからね^^



当サイトへは下記よりお入りください。
PC版    お仕置きの部屋
スマホ版  お仕置きの部屋

体罰禁止法案適用について

親の体罰禁止を盛り込んで改正された「児童虐待防止法」と「改正児童福祉法」が今年の2020年4月から適用されたって知っていましたか?
私はこういう法案が提出されて法案審議にかかったところまでは知っていたのですが、既に適用されていたことは知りませんでした^^;

先日保育士を目指している子から「体罰は禁止になったんだよ」と聞き、私は既に廃案になったと勝手に思い込んでいたので念のため調べてみると既に成立、適用されていたんですね^^;
なんか新型コロナウイルスの話題で打ち消されたのでしょうか、全然耳に入ってきませんでしたね…。

この体罰禁止法案の件はQ&Aでも応えたことがありましたね。記事はこちら
その時には、虐待は絶対にダメな事ですが、仮に軽く叩くくらいならいいと容認してしまうと、その加減の線引きは法律では無理で、そうであるなら体罰を全て禁止にしてしまうという結論になってもしょうがないのかもしれないというような答え方をしましたが、実はその時は本当に成立するとは思ってはいなかったです^^;

これは生活をしていく上では無謀ともいえるもので、躾け目的だったとしても、どんなに軽いものでも体罰は法律で禁止されると規定しています。
つまり、「ダメだよ」といって軽~く頭をポンッとするのも法律違反、ほっぺを軽くペチっとするのも法律違反ということです。
罰としての長時間の正座やご飯を与えないことが体罰というのはわかりますが、その線引きはあいまいですよね。
また精神的な体罰も禁止となり、「生まれてこなければよかった」「子供を辱めて笑いものにする」「兄と違って出来が悪い」等の人格否定も心理的虐待として禁止だそうです。

もちろん子供が心に傷を負うような行為は禁止すべきですけどね、なんだか腑に落ちない点もありますね。
そうはいっても罰のさじ加減は法律では制定できないので、まぁ一切禁止となるのは苦渋の策なんだと思いますし、実際は人間の感情や性格の問題なので非常に難しいでしょうね。

ただ、私は思うのですが、これは子供の人権を守るための法律だと考えると全て納得がいきます。
子供というのは発言力がなく、家庭内だと事実があっても隠蔽されてしまうことがありますよね。
肉体的な体罰があっても、心理的な虐待があっても、証拠がなければもみ消されてしまうでしょう、その証拠を集める能力にも乏しいし、親を訴える勇気もなければそんな知恵を持っている子もあまりいないでしょうから。
だから一切合切禁止せざるを得なかったんでしょうね。

これが大人であったらどうでしょうか。
これが躾の為であろうがなかろうが、相手が被害を受けたと思えばこれは立派な刑法の傷害罪として成立し、10年以下の懲役刑です。
大人なので傷があれば証拠になりますし、そういった証拠がなければ録音するなり隠し撮りするなりの知恵を働かせて自ら戦える能力も備わっていますよね。
加害者がそうは思っていなくても被害者が傷害と思えば障害だし、名誉棄損や侮辱罪、セクハラやパワハラなども被害者の心次第です。

でもそれが自分の為にしてくれたと思ったり、ありがたいことだと思ったら被害ではなく嬉しいことにもなり得るんですよね。
それは人間なので、ただ威張り散らしているだけの人とか、いじめているだけとか、理不尽な事を押し付けているとかであれば、受け手がよくわかるはずです。
でも相手が自分のために親身に必死に涙ながらに叱ってくれたり殴ったりしたら、そこに友情が芽生えたり師弟関係が成立したりなんてこともよくある話です。

だから本来は躾としてのお仕置きは必要で、それは子供でもある程度必要だと私は思っています。
当然子供心に嫌われたと思ったり人格否定と感じたりしたら絶対にダメなことですが、そうではなく手加減をした優しいペンペンやその後の言葉がけやスキンシップで、結果成長する前提でのお仕置きならの話です。
ただそういう躾をできるのはそういった資質のある人にしか無理なので、今回の法律のように子供に対しての体罰を一切禁止にするのは私は賛成です。

ただ大人は別ですね(笑)
先ほど説明した通り、相手が被害を受けたと思わなければ傷害罪は成立しません。
それは名誉棄損、侮辱、パワハラなどの人格否定もそうですが、相手がそう思わなければ罪は成立しません。
そして仮に私が全く知らない人に対してお仕置きをしたらこれはもう傷害罪ですよね(笑)
お説教にしても全く知らない他人にしたら、名誉棄損や侮辱罪ということにもなりかねませんよね^^;

でも相手に被害感情がなく逆に感謝があれば、お仕置きという体罰はその人の人生の為であって、その人の成長にもなり得えます。
その上で自分の心を解放出来たり、新しい視点で物事を考えられたりすればそれは悪い事では無くとてもいいことなはずです。

人の心を傷つける人はそれは人間性の問題です、そういった人間性に左右されることに対して、これまでの法律のように”懲戒権”という躾の為に子供を懲らしめる権利を与えてはいけませんよね。
親といっても一人の人間です、クラスメートを思い浮かべればよくわかるでしょうが、誠実で立派な親になれそうな人はいても、そうはなれなそうな人もいたはずですし、結局そういうクラスメートも親になるんですから、家庭内にトラブルがあって当然です。
でも子供目線で親を捉えるとそういったことが客観視できなくなるものなんです。

私のお仕置きは相手の心を傷つけないということに重点を置いています。
もちろん反省内容についてのお説教は、より罪悪感を感じて反省してもらうために、あえて傷つけるような言動をすることがあります。
それは「こんなに悪い事なんだよ、これで傷つく人もいるんだよ、もっとできるはずだよ」ということを心に刻み込んでほしいからです。

その上でお説教をしますが、それでも相手の気持ちを尊重して、そうしてしまった気持ちを理解しながら言葉を交え、お仕置が終わったら全てを許し、このようにしてしまった行動を全面的に共感しますが、それでもダメなんだとフォローするように言葉がけしています。
それは、人間なんだから何をしてしまってもしょうがないですが、そこに反省の気持ちがあれば許されるべきだと思っているからです。
もちろんお仕置きを受けなければ許しはありませんし、自分自身も許してあげれないでしょうからね^^;


当サイトへは下記よりお入りください。
PC版    お仕置きの部屋
スマホ版  お仕置きの部屋

愛情とスキンシップの重要性

家庭的なお仕置きに絶対不可欠なのは愛情です。
お尻ペンペンのお仕置きにドキドキしてしまう人の大半はこの愛情を求めていて、それを満たす手段としてお仕置きを求めてしまうケースがほとんどだと思います。

お仕置き=愛情という図式はピンと来ないかもしれませんが、お説教は相手のことを思った愛情表現であり、お尻ペンペンのお仕置きをしている最中でも、その光景を妄想すると愛情を感じてしまいますよね。
お仕置きが終わったらスキンシップをしながらその全てを受け入れてくれることで愛情が完結され、この一連が家庭的なお仕置であって、とても深い愛情だと思います。

スキンシップはお仕置き後の抱っこや甘える行為だけではなく、お仕置き中でお尻ペンペンしていても身体が触れていればそれはスキンシップでもあります。
身体が離れている状態や手が触れていない状態でのお仕置きを嫌がる人はこういう心理なんでしょうね^^

それに小説や妄想だともっとリアルに全体の愛情を空想でき、その空想の中でのお仕置きでは性欲中枢も刺激されたりしてりドキドキが止まらなくなり、実際にお仕置きをされたい欲求が爆発してしまいそうになるものです。
まぁ性欲中枢が刺激といっても性的なお仕置きではなく、家庭的なお仕置きを好む人は性的でない愛情あふれたお仕置きだからこそ反応するんですね。

そういう反応がありすぎると実際に日常生活に支障が出てしまうこともありますから、まぁ深刻といったらかなり深刻なんですけどね^^;
で、大半の人はお仕置きに愛情やスキンシップがなければ満たされ感は低いです。
どこかで目にした愛情のあるお仕置きの描写が脳裏に刻み込まれたためにお仕置きを求めてしまうのですが、そうであるからなんでかわからないけどお仕置きに愛情を感じ、それを求めてドキドキしてしまうものでしょう。

愛情を求める手段は他にもいろいろとあります。
それは恋愛であったりその延長線上のセックスであったりが一般的ですよね。
でもそれよりももっと愛情で満たされるものが”お仕置き”という人もいて、それがキーさんの中にはいるんですね。

男性の多くはセックスで満たされるみたいですが、女性はセックス自体よりも抱き合ったりのスキンシップの方を大事に思っている傾向があって、それは瞬間的か長期的かという大きな差があります。
そしてそういう愛情よりもお仕置きの方がもっと愛情で満たされるという人もいるんですね。
つまりセックスよりも満たされるのが家庭的なお仕置き、恋愛よりも満たされるのが家庭的なお仕置きで、恋愛やセックスはしたくてもそれよりも上位なのが家庭的なお仕置きによる愛情という人もいるということです。

ちょっと怖い話になるかもしれませんが、この愛情やスキンシップは、実は人間にとってかなり重要で、これがないと生命維持や精神に支障をきたすことになるって聞いたらどう思いますか?
実はそういう人体実験が過去にあり、そういう結果が判明しています、現在ではありえない実験ですけどね^^;

まぁだからこそ大人になっても甘えたかったり愛情を欲したり、スキンシップで包まれたいと本能的に感じるんでしょうし、精神的な安定につながるんでしょう。
そして家庭的なお仕置きに魅力を感じてしまう人も、それが愛情やスキンシップを求めてのことであれば本能的な欲求であるといえるでしょうね^^

そのスキンシップと愛情的な人体実験を2つほど紹介したいと思います。

今から800年ほど前、神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世が、生後間もない孤児の赤ちゃんを50人集めさせて、教育されない赤ちゃんはどういう言葉を話すようになるのかという人体実験をしました。
養育係には、
赤ちゃんの目を見てはいけない、声をかけてはいけない、一切触れ合いをもっていはいけない、常に無表情で接する。
ということを徹底させたそうです。

ちゃんとミルクなど栄養は与えていたそうですが、スキンシップや愛情無しに育てられた赤ちゃんは尿が出なくなり尿毒症を発症し、泣かなくなり、1才の誕生日を迎える前に50人全員が死亡したそうで、死因はおそらくストレスによる病気の発症だったと考えられています。
結局当初の実験結果は得られず、スキンシップや愛情の人体実験になってしまったという予想もしない結果になってしまいましたが、残酷過ぎですね…。

もう一つ、スキンシップがもたらす効果の人体実験は1950年頃のスイスでも実施されています。
心理学者のルネ・スピッツは戦争孤児の赤ちゃん55人を施設に入れて、保母や看護師に面倒を見させたそうです。
その時の養育条件は、母乳を与えないことと皮膚接触の禁止です。
要するにスキンシップが一切ない赤ちゃんはどのように育つかという実験でした。

結果は55人中27人が2年以内に死亡し、17人が成人前に死亡したそうです。
なんと55人中44人が死亡です。
残り11人は成人後も生き続けたそうですが、その多くには知的障害や精神障害が見られたそうです。

原因はスキンシップが無かったことによる成長ホルモンの障害だと考えられていて、そうだとしたらスキンシップ不足によってオキシトシンやセロトニンの分泌が阻害されてしまったからということになるでしょう。
オキシトシンはスキンシップで分泌され、ストレスを消したり多幸感をあたえてくれる人間にとってとても重要なホルモンです。
要するにスキンシップがないと肉体や精神に大きな悪影響がでてしまうということですね。

これは幼児期の話ですが、幼児期を過ぎて大人になってもスキンシップによりオキシトシンやセロトニンは分泌します。
肌と肌のふれあいで分泌しますが、愛情を感じることでも分泌します。
愛情のあるお説教、そして膝の上で罰を与えますがお仕置きしながら触れ合うのでそれもスキンシップ、更にお仕置き後に全てを許し受け入れる愛情に、アフターフォローのスキンシップをする。

もうお仕置きに魅力を感じている人にとっては幸せホルモン分泌しまくりですね^^;
お仕置きで愛情を満たすというのはとても理にかなっていて、地獄から天国に這い上がるくらい気分が上昇し、この一連の流れがあるからこそ心理的にもメチャクチャ多幸感が味わえるんだと思います。^^

過去のブログでも書きましたが、お仕置き後に生理周期が安定したり、安眠できるようになったり、精神が落ち着いたりということをよく報告を受けます。
体調がすぐれなかったけどよくなったとか、これらは一連のお仕置き行為によって成長ホルモンやオキシトシン、セロトニンなどが分泌するために一時的にでも安定するんだと思います。

最初は偶然かなと感じていましたが、最近はいろんな人が同じようなことをいってくるので確実に効果はあると確信しています^^;
なのでお仕置き欲求ばかり膨らんで日常生活に支障が出て余計にストレスが溜まってしまっているお仕置き未経験の方は心身ともによくないでしょうね。
まぁお仕置き欲求を無くすためにお仕置き依頼をする人もいますし、とりあえず何度か体験して欲求を薄めることで精神が安定出来たら最高ではないでしょうか。

とにかく愛情やスキンシップは生命維持や精神安定にはとても大切な事です。
それを単なるお尻を叩くだけで満たすのではなく、家庭的で愛情のある、そして悪い事の罰としてのお尻ペンペンのお仕置きで満たす。
叩かれたいだけではなく、愛情に触れあいたい、その手段としてのお尻ペンペンだという認識を持てばなんら恥ずかしいことでも変な事でもないと私は思います。

お話しをするだけでも親身さを感じれば満たされるでしょうし、それだけでも多幸感が出て、オキシトシンやセロトニンなどのホルモンの分泌も促されます。
お仕置きをそういう視点からみてもいいのではないでしょうか。

お仕置き欲求のある自分を否定したり我慢するのではなく、思い切って受け入れて満たしてみる。
それが出来るのは欲求があるからこそであって、もしかしたらそれがあるからすごく満たされ感が強くなれるかもしれませんしね。
とにかく欲求を持っている人の方がたくさん満たされるし安定することは間違いのないことです。




当サイトへは下記よりお入りください。
PC版    お仕置きの部屋
スマホ版  お仕置きの部屋

頑張り度の基準

”頑張っているな”と評価するときの基準ってだいたいの人は自分を基準にしてしまうものです。
親が子供の頑張りを認められない、先生や友達が自分の頑張りをわかってあげられず努力が足りないと指摘する。
そういうケースの殆んどはその評価者たちは自分基準で人を評価しています。

仕事でも同僚の頑張り度は自分基準で評価をしがちで、自分が頑張った時はもっとできたからこいつは手を抜いているんだろうと思ったり、自分が気が付けることを気が付けないと真面目にやってのんのか、やる気ないんじゃないかと思ってしまい、イライラしたり怒ったりする、それも自分基準の目線です。

でも人間はみんな同じ感覚を持っているわけではありません、みんなの”普通”は自分の中だけにあり、自分を通して相手の頑張り度を評価していること自体がナンセンスで間違っていると私は思っています。
本当の頑張り度とは努力して精神的にどれだけ負担がかかっているか、そういう基準で見なければ頑張り度なんてわかりません。

例えば天才であればさほど頑張らなくても100点はとれるでしょうが、それは一種の才能です。
それよりも全然才能がない人がメチャクチャ頑張った結果が90点だったとしても、頑張り度は100点をとった人よりも数倍高いはずです。
私はこの活動でも私生活でも精神的にどれだけ頑張ったかという人それぞれの頑張り度を基準として人と接しています。

例えば人によっては10時間の勉強じゃ頑張っていないと指摘するでしょうし、別の人には6時間でも”よく頑張った”と褒めることもあります。
それは私基準の勉強時間でも世間基準の勉強時間でもなく、その人が精一杯頑張った、その人基準というものが別に存在しているからです。
ただそれがゴールではなく、そこから少しずつキャパを広げたり、できることを増やしたりするので、個々によっての課題は違うものとなります。

それがクラスや会社であったとしたらみんな同じ課題をこなし、それについて比較されたりします。
残念ながらそれが日本社会ですが、私の場合はそういう見方はしません。
ただそれでよしというわけでもないので人によってはきついと感じることもあるでしょうが、その試練にチャレンジしたり乗り越えるための頑張りが大切と考えています。
課題が無理であればハードルを下げてみたりもして調整はしますが、すぐにあきらめることがないように、そういう個々の頑張り度を重視しています。

人にはそれぞれ苦手分野もあれば得意分野もある、全て普通にこなす人もいれば苦手なことがとても多い人もいます。
でも大切なことはどれだけ”自分なりに頑張れたか”ということで、それは本人基準でいいんです。
本人基準を知るには話をよく聞いて、そこに怠け心はないか、頭や心のキャパはどのくらいか、本当に限界なのか、これまでの人との関わりでのトラブル、養育環境等、いろいろな角度から分析しその人の気質を探っていきます。

また、人によってはどんな些細な事にも敏感に反応してしまうタイプの人がいます。
音に敏感で普通の人はそれほどびっくりする音でなくても極端にびっくりしたり、ちょっとした相手の仕草にも反応し、イライラしているんじゃないかと気にして、その原因は自分かもしれないと過敏に反応してしまったり、その影響で自分の意見を言えなかったり頼みごとが出来なかったり、それで頭がいっぱいになってやらなければならないことが出来なくて怒られたりと、負のスパイラルに陥ってしまうことが日常茶飯事という人もいます。

それだけで精神的に疲れてしまって、人が普通にこなせる業務も1日中ストレスフルの状態のため、人の2倍3倍頑張って仕事をこなし、帰ったらボロボロでぐったりしてしまいます。
他の人は気にしすぎだよ、気楽に考えればいいとアドバイスをされてもそれができない気質だから更に悩みます。
頑張っているのに普通の感覚の人は理解してくれないということの辛さは相当なはずです。

また、普通以上に鈍感な人はミスや気がつけないことが多かったり、空気が読めなかったり、要領よく仕事が出来なかったり、遅刻、忘れ物などがちょくちょくあったり、そういう人は学生時代からずっと叱られっぱなしでしょう。
普通の感覚であれば気を付けていれば大丈夫でしょうが、遅刻をしないように努力をしても、忘れ物をしないように努力をしてもそれでもしてしまう人って実際にいるんですね。

人の2倍3倍頑張って気を付けて、いつも気を張って集中していればなんとか防ぐことができても人間にそもそも四六時中集中できる能力なんて備わっていません。
だからたまにやらかすことはあるのですが、人は”またお前か””やる気あるのか”とそういう評価しかしてくれません。
普通の人はさほど努力をしなくてもできることでも、必死に努力してもたまにミスが出てしまう、そういう気質の人も実際いるんですね。

怠けとかやる気がないとか頑張りが足りないとかそういうことではなく、頑張り度からいったら普通にこなせる人よりも何倍も努力はしているものです。
もちろんいい加減な人ややる気のない人もいますが、明らかにそうでない人もいるので、頑張ってない人と一緒にされることはとても辛いことでしょう。
頑張ってはいるのにダメ出しをされ、叱られるたびに自分のダメさとかを痛感し、二度としないように努力をしてもまたしてしまいます。

また人と関わることが怖い人、自分で決断ができない人、発言することが怖い人、マイナス思考で自分を責めすぎる人、全て自分が悪いという思考に陥ってしまう人、そういう人たちも葛藤しながらみんなの普通に合わせて人の何倍も頑張っているんですね。
普通の人は簡単にアドバイスしますが、それができないから辛いんです、それが理解されないから辛いんですね。

私はその頑張っている姿がとても好きですし、自分なりに頑張っている人は私にとっては尊敬に値することです。
まぁマイナス思考の人は凄く頑張っていても、私なんて頑張っていない、頑張れてない、とふさぎ込み更に頑張ることで疲弊していきます。

でも頑張り度で人をはかれる機械があったらその人たちの評価はものすごく高いはずです。
この感覚を全く理解できないという人はいるでしょうが、私にはよく理解できます、それはそういう人たちをたくさん見て来たからです。

普通普通といいますが、普通って何でしょう。
普通の感覚の概念とはコミュニティー内の大多数の感覚です、またここでいう普通とは日本人の普通のことです。

普通以上に敏感に物事を捉えてしまう人や普通より鈍感な人は、普通よりコミュニケーションがうまくできない人はそれは普通じゃないと否定されてしまうのです。
また、普通以上に空気を読みすぎる人や、逆に空気を読めない人なども普通じゃないと否定され、普通の感覚なりなさいと指導やアドバイスを強要されがちです。

でも普通に直せるならそれでいいのでそうが、直せないことを強要することは人権侵害でもあり、こういう風潮はよくないことだと感じます。
特に日本は足並みをそろえるのが好きな国民なので特にそうなりがちなんでしょうね。

それと、大多数の感覚を持っている俗にいう”普通の人”はそうではない感覚の人を理解しようとしません。
それはそれが普通で当たり前のことだと思っているから考えようともしないし、だからこそ普通に合わせろとしか思わない人が多いんだと思います
でも生まれながらに感覚が敏感な人や鈍感な人がいたり、トラウマや家庭環境などでうまくコミュニケーションが出来ない人やマイナス思考の人はいて、それは努力をしたからといって簡単に普通になるレベルのものではなく、それがその人の気質であり、それがその人たちの普通なんですね。

例えば仮に敏感すぎる人が大多数になったらそれが日本人の普通となります。
これまで普通とされてきた人たちは鈍感すぎる人となってしまい、もっと気が付きなさい!努力が足りないからだ!と叱られることになるでしょう。
ても生まれ持ってる自分の気質は変えることは難しいですし、そのことで日々叱られたり孤立的になったり、理不尽な思いをしたりと、そういう立場になった時にやっとこういった頑張り度のことが理解できるのかもしれません。

そういう人は特に仕事になると辛いでしょうが、自分に合っていない仕事を無理やるする必要はなく、ストレスをそこまで感じずに働ける職場はきっとあるはずです。
世間体に囚われず、自分やりたいことを実現する、それがそういう人たちのストレスのあまりかからない明るい未来の第一歩だと私は思います。

そういったことで悩んでいる人には、自分の本質は何か、何をしたいのか、そういった深い話もカウンセリングでは当たり前のように話しています。
私も客観的に見て話し、普通の感覚の話をして、そのギャップを理解させたり、そういったことで前を向けるように話をしています。

私は頑張って苦悩している人は応援したくなります。
世間体にしがみつかなければならない人はそれなりにスキルを普通に近づけなければなりません、世間体にしがみつかなくていい人は自由を選択できることもできます。
どちらにしても気持ちの整理は必要なので、そこは他人の手を借りることは必要で、私はそういったことで悩んでいる人の相談にものっています。
相談といっても私は提案や視野を広めるようなことしかいわないので、背中を押すこともありますが、決めるのは当人に必ずさせています。

私の想いはシンプルにいうと、自分の人生は自分の好きに生きたほうがいいということだけです。
やりたいことを実現する、それが自分の人生で、それが人生を生きているという証だからです。
もちろん世間体に縛られなくてはならない人、家族の縛りやどうにもならない環境で人の敷いたレールで生きていかなければならない人には少しでもストレスを軽減できるような捉え方を提案したり、その中での生き方を一緒に考えていったりしています。

ちょっとお仕置きとずれてしまいましたが、こういったことがメインな「お仕置きの部屋」でもあります。
ここまでの悩みではなくても直さなければならないことを本質の部分から確かめたり、人生において大切な事、そういったことを交えてのお仕置きなので、お尻を叩かれたい人と叩きたい人というスパプレイではなく、普通に人生においての真面目なお話しする場みたいな感じです。
そして必要があればそれに応じたお尻叩きがあるだけです^^
ま、直さなきゃいけないこと、約束、成長のための課題、そういう形であれば否が応でもお仕置きはつきものですけどね^^;

最後に、頑張ることは素晴らしいですが、頑張りすぎて心が折れそうな人には休息を勧めます。
そこの限界は本人の言葉を参考にしますが、いずれにしても頑張りすぎている人には人生を見つめな直すようにいろいろな話をしたり、精神が破綻してしまう前に警告します。

そこまで我慢して仕事や誰かと関わることは必要ないと思っているので、自分の人生だということをしっかりとお話をしていきます。
とにかく他人のための人生ではなく、自分の為の人生になるようにしていかないと、いずれ後悔するはずですし、最後を迎える時に満足はしないでしょう。
そうならないためにどうするか、そういったことも大切な事だと思います。

長くなってしまいました^^;



当サイトへは下記よりお入りください。
PC版    お仕置きの部屋
スマホ版  お仕置きの部屋

卒業シーズン

もう卒業シーズンですね。
今期は新型コロナウイルスの影響で卒業式中止が相次いでいますが、それでも規模を縮小して卒業式を行う学校はあるようです。

卒業は別れでもあります。
いつも一緒にいた親しい人との別れは悲しいものです。
お世話になった大好きな先生との別れも悲しいですよね。

また卒業といえばキーからの卒業、パートナーからの卒業もありますね。
就職や転勤を機にパートナーと離れなくてはならない人もいるでしょう。
また、これに関しては今がシーズンというわけではありませんが、彼氏が出来たり結婚を機にパートナーから卒業せざるを得ない人もいるでしょう。

大好きで離れたくないパートナーから諸事情で離れざるを得ないというのはとても辛いものです。
それが一方ではなく、お互いに離れたくないと思っているのに離れざるを得ないというケースというのはそれはそれは辛いでしょう。
一方がそういう選択をせざるを得ない状況になった時にもう一方は背中を押してあげるのが一番ですが、好きで離れたくなければつい関係を続けて欲しいと言ってしまいがちで、その一言が相手に辛い思いをさせることにもつながります。

関係を続けたいと言う方も相手のこと考えると追い詰めることにつながるので辛いですが、自分のことを考えると黙っていられなくなって言ってしまう。
言われる方も相手に悪い事をしたという罪悪感で辛くなる
だからこそ黙って見届けてあげないと、どんどんと悪循環に陥ってしまいます。

相手を失って初めて相手の大切さ、重要性が分かるものです。
守るものがあるならば、突然の別れはあるものです。
急に離れなくてはならなくなるかもしれないと想定しておけば普段でも思いやりのある言動ができると思います。
些細なことで喧嘩したり、突き放してみたり、気持ちを素直に言わなかったり、そういうことは後悔につながるので、大好きな人にはしっかりと愛情表現をしていくべきだと私は思います。

特に相手に配偶者がいたり、彼氏彼女がいる人とパートナーになる場合はそういったことを踏まえてお付き合いをしていかなければと思います。
もちろん配偶者がいる人と性行為をしたら、それは不貞行為で慰謝料請求の対象となりますからそういったことのないようにしないといけませんね^^;

もしそのようなことをしてしまった人はお仕置きです!
その場合はお尻ペンペンのお仕置きをしますので正直に申告してください(笑)


当サイトへは下記よりお入りください。
PC版    お仕置きの部屋
スマホ版  お仕置きの部屋

親友とは

前記事の続きです。

友人ということに対しての補足です。
そもそも友人(親友)というのは、自分に何かをしてくれる相手ではなく、自分が何かをしてあげたいと思う相手でなくてはうまくいくものではありません。
友人は待っているだけではできませんし、構ってちゃんのように何かをしてくれないと友人と思えないような受け身な考え方ではなかなか友達はできませんよね。

そして何か喜ぶことをしてあげたとしても、そこに見返りを求めてしまってはそれは本当の意味での好意ではなくなってしまいます。
もちろんその好意には通常はちゃんと好意で返ってくるでしょうが、それがなかったからといって過度に気にするようではいけません。

また、その好意は物や言葉だと思い込んでいる人はいますが、好意とは相手の誠意や気持ちであって形はどうでもいいわけです。
たとえ毎年くれている誕生日プレゼントがもらえなかったりとか、何かしてあげたことに対してのお返しが無かったりとかしても、必ずしも相手に気持ちが無いわけではない場合は多いものです。
結果的に物に執着してしまうと、物で友人を見てしまうようになりかねません。

ただ、そうはいっても自分自身としては相手に何か返すことを心がけるようにする、それはもしかしたら相手が同じように悲しい気持ちになっていることもあると考え、そこは敏感に対応してあげることは必要でしょう。
相手がどうとかではなくて、自分自身は見返りを求めず、何も返ってこなくても気にしない、そして何か好意をいただいたらそれを言葉や形にしてしっかりと返すということは心掛けるべきだと私は思います。

単純に相手が好きだからしてあげる、それだけでいいんです。
それに対してお返しがなきゃおかしいとか嫌な思いをするのであれば、それは好意の押し売りでしかありません。
また、「嫌な思いをしている私の気持ちをわかってくれない」「察してくれない」と思って拗ねてしまうようなことはよくありませんよね。

もし自分が嫌な思いをしているのなら優しく言葉で伝える、そうする事で相手がどうしてそのような言動をしたのかがわかり、結局は相手の気持ちを勘違いして解釈していてたなんてことはよくある話です。
勝手に妄想して悪い方向に解釈してしまう癖がある人というのはマイナス思考であり、そういう人は要注意ですね、これではなかなか親友はできませんし、異性ともうまくいきません。

相手の気持ちは勝手に自分で決めつけないで、その都度気になったところはサラっと本人に聞いてみる、そうすればほとんどの場合は、大したことがなかったとわかってホッとして、負のオーラはなくなり、正のエネルギーが出てきます、そんなちょっとしたことで精神は立ち直るんです。
だから自分を察してと受け身になったりとか相手の気持ちを勝手に決めつけるようでは幸せにはなりにくいわけです。

良い人を演じてしまう人という話から親友論になってしまいましたが、人間関係において見返りを求めたり被害妄想的に悪い方向に解釈してしまったりという人は心が病みやすく、ストレスも溜めやすいものです。
良い人を演じてしまう人は、断ることが困難で、嫌われたくない一心で自分の意見を言えないケースが多くあります、意見を言えないからこそ不快に思ったことを相手に気軽に聞けないでいて、そのまま悪い解釈をして抱え込んでしまうんですね。

そういう人は良い人であることを一度止めて、自分の意見をいえるようにすればいいのですが、それはなかなかできませんよね。
でも思い切って少しずつ自分の意見を言うことを実行してみたら、自分が思ってるほど人はなんとも思ってなかったと感じたり、自分の意見を言えたことでストレスが軽減したと実感したという人はいます。

なので、できないながらもそういう努力はしてみる価値はあるはずです。
それでも自分を変えられない人は多くいて、だからこそ辛いのですが、実際そうさせているのは自分が作り上げたキャラのせいであって、そのキャラを変えないとなかなか自分を変えることは難しく、結局は現状のままになってしまうでしょう。

まぁ私はズバッと断れますし、なんの躊躇もないんですけど、いろいろな人の話を聞いていると断れない人って本当に辛い思いをしているんですよね。
断りたくても断れない人にしか理解できない辛さというのは私もいろいろな人の話を聞くうちに知ったのですが、そういうことを理解できない人がいるので、単純なアドバイスだけじゃ余計辛くなってしまいますよね。

ま、でもそこを少しでも気持ちが楽になればと考えてみました^^;
勇気をもって練習だと思って少しずつ自分の意見を言っていき、成功体験を積んでいきましょう^^



当サイトへは下記よりお入りください。
PC版    お仕置きの部屋
スマホ版  お仕置きの部屋
モバイル版お仕置きの部屋

インスタ
https://www.instagram.com/kyosuke295/



人間力

「人間力」って検索してみたらそういう言葉って存在しているんですね、ただ私の持っている広辞苑にはその言葉はないので、最近作られた造語のようなものなのでしょうか。

まぁ私の言っている「人間力」というのは、単純に言葉そのままで「人間としての力」であって、それは勉強の能力ではなくてコミュニケーション能力はもちろん、挫折や辛いこと、不幸を乗り越える力であり、一人で生きていける力のことを言っています。
前記事に書いた「挫折に弱い人」はこの人間力を身につけていくことが必要だと思います。

人間は何が一番嬉しいことかというと、それは脳が幸福感を感じる事であることは間違いありません。
人の悩みには、失敗、挫折、不幸な事、対人関係とありますが、その時に気持ちをどうやってコントロールするかが重要です。
物事の捉え方や考え方でプラスに考えて気持ちを切り替えてみたり、考えてもどうしようのないことを考えないようにしたりと、人間力のある人はそれをうまく消化できるから幸福感も感じやすいんです。

また人間の悩みの大半は対人関係だと言われていますが、その中で大切なものはコミュニケーション能力です。
世の中には理不尽なことはいっぱい存在します、小さい頃はそんなことは教えられていないので、理不尽な仕打ちがあると当然大きなショックを受けます。
そこから立ち直り、またショックなことがあり、その繰り返しでどんどんとストレスに耐性をつけていって人間力をつけていかなければ不幸を引きずってしまいます。

また、ストレスに対して耐性をつけると同時に、理不尽な人や理不尽なことに対しても柔軟に対応できる術を身につけることも必要で、これも人間力です。
小さい頃からずっと親や先生に、正しいことをしていれば間違いないと教えられていたのに、時には正しいことをつき通すといじめられる原因になったり、孤立してしまったりと、小さい頃に教えらてきたからこそショックも大きくなるものです。

もちろん正しいことは正しいので曲げる必要はないのかもしれません、ただし、自分を守るためにも、ある程度は融通をきかせて理不尽なことにも従ってみたり、譲歩してみたりという、ある意味の屈辱感も仕方がないことでもあるのです。

正しいことだから曲げたくないと突き進んで、その結果孤立しても、信念を通せたという意味で幸せを感じられるのなら突き進んだ方がいいに決まっています。
従ったり、譲歩することは屈辱だけど、突き進む辛さ、孤立する辛さの方が耐えられないのであれば不甲斐ないですがそうすべきだと思います。

これをしたとしたら嫌悪感はあるでしょうし、道徳的にも人間的にもやっていることはおかしいのですが、自分は生きていてどっちが幸せを感じるのかを天秤をかけてもいいのではないでしょうか。
結局人間の世界は影響力がある人が正しくなる傾向があり、それは本当におかしいことです。

影響力のある人が「白いものを黒」と言ったら黒なんですね、もし白と言ったら理不尽な扱いを受けてしまう。
これをくつがえすには更なる影響力のある人が「これは黒ではなく白」と発信しなければならず、結局は影響力の戦いになるんです。

この不条理は、子供の世界でも大人の世界でもどこでもあることで、本当はそれは人間としてダメなことと分かっているはずなのに黙認されている事実で、そいういう理不尽な事が一番の心が病む原因でもあります。

ま、「影響力がある人には逆らわない方がいい」なんて悪魔に魂を売るような事は学校では決して教えませんが、人は少なからず、そうやって自分を守ってたくさんの嘘(思っていても言わないことを含む)をついて生きているわけで、それはなんでかというと孤立したり辛い思いをしたくないからです。

また、理不尽なこと代表としてイジメの問題です。
いくら「いじめはダメ」と教わってきても子供時代には必ずイジメはあるものです。
そして「イジメはダメだよ」と教えている大人の世界でもいじめは必ずあるんです。

その中でも、自分の我を通したためにイジメられた、正しいことだからと突き進んだからイジメられた、影響力のある人に逆らったからイジメられた、というようなことであれば、自分の立ち位置を把握して、理不尽なことにも柔軟に対応するコミュニケーション能力である程度は対処できるものです。

もちろん長い歴史の中で、理不尽なことには絶対に従わない人は存在するわけで、それを通したばかりに処刑されたり、命を奪われてしまったり、孤立してしまったりという人はいて、そういう人はそういう信念のもとに行動しているので、死を選んだ方がましだ(死んだ方がまだ幸せだ)と判断した人もいるはずです。

そこまで潔い人は本当に尊敬はしますが、本人はそれでよくても家族や親友、恋人はとても苦しみますから、そう考えるととても複雑ですね。
私の場合はどうするかというと、ほぼ自分の信念を貫き通しますが、協調性が関与している場合においては理不尽なことに譲歩することはあると思います。
ただ、これは今の自分だからですね、過去を振り返ると、そうではありませんでした。

ま、私が書いていることはそういう選択肢もあるということで、自分が少しでも幸せに感じるためには、柔軟に対応したほうがいいし、それも人間力であるということです。
信念をつき通すといって頑張っても、それが原因で心を病んで精神疾患になってしまって一生影響してしまいます。
そういう人はたくさんいますが、それがその人にとって幸せならいいのですが、結果としてはそうではないはずです。
精神が破綻する可能性があるのなら、他の少しでも幸せになれる選択肢を選ぶべきで、それで誰かが犠牲にならないのであれば構わないと思います。

そしてこのような人間力があれば一人で生きていく力ができ、自分のやりたい人生を送ることもできるのです。
自分のやりたいことをする、それが自分の人生を生きる条件だと私は考えています。

人間の命には限りがあって、それは生物に共通していることです、そして人間だからこそできるのは、自分の発想で人生を決められるし、変えられる、すなわちやりたいことができる能力が備わっているということです。
そして人間は何を一番手に入れたいかというのはおそらく共通して「幸せ」という幸福感だと思います。
その幸福感が何かというのは、心とか物とか仕事とか人脈とか地位とかお金とか、それは人それぞれです。

ただ、親が「幸せになるから」とレールを敷き、言われた通りにする人生は、他人の人生を生きているのと同じで、いつか他人の人生を生きてきたことに気づいた時に、待っているのは不幸のみです。
人生を生きるというのは自分のやりたいこと、自分の決めたことをする事であると思います。
そして人生において”生きている実感”をどう感じるかが大事なんです。
だからこそ生きているうちにやりたいことをやればいいんです。

最終的な幸福とは自分の人生を自分の思うとおりに生きる事をまずしなければ手に入らない、そう私は思っています。
自分に自信がない人、何も決められない人、親や周りに流されてしまっている人、、、
自分を見つめて自分の人生を考え直すことも必要だと思います、もうすでに社会人になってしまった人、これから社会に出ようとしている人、まだまだ間に合います。
自分の本質とは何か、何を人生に求めているか、その部分を探すお手伝いもしていますからね^^



当サイトへは下記よりお入りください。
PC版    お仕置きの部屋
スマホ版  お仕置きの部屋
モバイル版お仕置きの部屋

インスタ
https://www.instagram.com/kyosuke295/

挫折に弱い人 2

前記事の続きです。

挫折に弱い人というのは、あまり失敗した経験が無かったり、何事も努力で乗り切ってきたり、完璧でありたいと思っていたり、根が真面目でピュアな人に多いものです。

ただ、経験は別として、そういった捉え方、考え方というのは親が無意識に子どもに教えてしまっていることがあるんですね。
特に教育ママやお受験ママ、学歴至上主義の親たちにとっては学歴は死活問題で、子どもの幸せのためには学歴が絶対必要で、それが親としての義務であり、子供に対する愛情だと考えているわけです。

そのような親は子供の幸せのために成績を上げようと頑張っていますが、その理由を言葉を選んでしっかりと子どもに説明しないと、子どもは親に叱られるから、見捨てられるからという理由で強制的に勉強することになり、これでは自分のためではなく、親のための勉強となってしまいます。

つまり親は愛情でやっていることでも、子供は愛情と感じていないということです。
大人になればわかってくれるだろうという認識は甘く、実際にその事で親に恨みを持っている子はいますし、もちろんそんなことは親は知らず、むしろ感謝されていると思い込んでいるのです。
なんで私がここまで言えるかというと、私がこの活動を通して、何人もの人から聞いているお話しだからです。

さらにひどいケースは、親自身の見栄のために子供を操ろうとする親もいて、どうしても周りに自慢したくて学歴だけに突き進んでしまうのです。
例え愛情をもって、子どもの幸せのために尽力を尽くしても、躾の言葉や接し方で確執が生まれ、一生誤解が解けないケースは意外と多いものなのに、見栄のために子供を利用するような面が少しでもあったら、子供は愛情で自分のために言ってくれているんだと思う余地は微塵もありません。
また、親が関係していなくても、日本はまだまだ学歴社会であるために、根が真面目な子供は、学歴がないと負け組なんだと、勝手に認識してしまう事があります。

しかし学歴があれば幸せになれるかというとそうではありません。
学歴があっても挫折に弱ければ幸せになれる確率は低くなりますし、学歴が無くても挫折に強ければ幸せになる可能性はかなり高くなります。
どっちが勝ち組かと言えば、幸せを感じて一生を終える人が勝ち組で、そのレベルでは学歴は関係ないことなんです。

一流大学、一流企業、一流と言われる職業につかせるために教育するのはそれはそれでいいと思いますし、そのレールを敷いてあげられるだけの労力や財力があるのならふんだんに使うべきです。
ただし、子供自身が親の操り人形になっていないか、子どもが人生において本当にやりたいことを邪魔していないかは考えないといけません。

親の敷いたレールを走らなければ「お金は出さない」とか「家から出ていけ」というのは子供によっては死刑宣告と同じで、心の弱い子は親の機嫌のために自分を殺す選択をするでしょう。

子どもには立派な人権や人格がありますから、自分の人生は自分で決めて自分の思い通りにしたいと思うのは当然のことです。
それでも親がこれまでの経験や親としての愛情(自分本位の愛情)で強制的に進路を決めてしまっては、子どもの人生は本人のものではなく、親の人生になり、そんなことではいくら経済的に豊かになっても真の幸せは感じないものです。

結局親が子離れできていないから心配でしょうがなかったり、いつまでも子供を支配下に置きたいと思ってしまうのだと思いますが、子どもがどのような人生を送ろうが、それが親の気に食わない事だったり心配だったりしても、一人の人間として短い人生やりたいことをやらせてあげるのが本人の幸せです。

親が生きてきた経験を踏まえて子供に人生のアドバイスをするのは大切なことです。
「きっと失敗するからやめておきなさい」という言葉はあくまでアドバイスであって、アドバイスの上で子供が違う選択をしたのであれば目をつぶって大きな心でやらせてあげるのが真の愛情ではないでしょうか。
親の理想の人生と、子供の理想の人生は違います、個人個人違うのに自分が思う幸せを他に強要するのはおかしな話ですからね。

失敗したっていいんです、やりたいことをやれる、それが人生です。
失敗した時に必要なのが挫折に負けない「人間力」であり、それは一人でも生き抜いていける力です、それがあればどんな環境でも幸せを感じることができるはずです。

子どもの幸せを第一に考えるのなら、どんな環境でも挫折しない人間力が第一であり、これを育てずしての幸せはありません。
この人間力と学力の両方を手に入れられたらそれこそ無敵なのかもしれませんね。

人間力を身につけないで一流の就職先に行っても、その先の人生は不幸なものになるでしょう。
不幸が見えているのであれば学力も就職先もこだわらず、人間力をつけた方がずっとずっと幸せです。

失敗してもいい、完璧でなくていい、理不尽なことも世の中にはあること、頑張ってもできないことがあることも教えなければなりません。
同時に、失敗したことを教訓にすれば成長できること、完璧にできなくても理不尽な目にあっても、頑張ったのにできなくても、それは人間の価値を決めるものではなく、それを乗り超えることが価値であること、そして乗り越えた先には人間の成長が必ずある事を教えるべきです。

失敗を後悔してばかりいたり、終わったことを振り返って前に進めなかったり、いつまでも誰かのせいにしたり、マイナスに考えたり、そういう考え方は癖のようなものであり、そういう癖をつけさせない、常に前を向かせるような考え方は、人間にとっては勉強よりも大切なことです。
今はストレス社会とも言われていますから、挫折を乗り越えていく人間力は絶対に必要です。
本当の幸せとは何か、それは幸福感を感じることですから、こういった考え方は赤ん坊に言葉を教えるように脳裏に焼き付けさせなければいけません。

キーさんには真面目な子が多いので、学生であっても、社会に出ても、自分に自信が持てなかったり、しっかりと自立しきれてなかったり、何をするにも不安であったりという子が多いように感じます。
そういう子にはこういったお話しをしてカウンセリングしたり、時にはお説教したりして自立できるようにしていけたらと思うことはよくあります。

ま、人間力って書きましたが、私の解釈では「人間が挫折に負けず、幸せに生きていく力」という意味です。
そこら辺の話はまた次回に書きたいと思います。


当サイトへは下記よりお入りください。
PC版    お仕置きの部屋
スマホ版  お仕置きの部屋
モバイル版お仕置きの部屋

インスタ
https://www.instagram.com/kyosuke295/

挫折に弱い人 1

小さい頃から、いくら大人に怒られないように良い子で真面目に過ごしてきても、いくら学業が良い成績であっても、社会人になってからの人生が保障されるわけではありません。
しかしそういう子達に限って、とても挫折に弱い傾向にあります。

まず、悪いことをしないので当然叱られないし、普段真面目だからこそちょっと悪いことをしてしまっても叱られずに許されてしまう。
そうやって生き抜いてきているので当然怒られ慣れていません、なので怒られる事にとても弱いんですね。
対人関係のトラブルも経験も少ないので、職場で必ずある些細な対人トラブルにとてもストレスを感じてしまう傾向にあります。
そういった対処の仕方を学生時代に学んでこなかったことから、どうしていいかわからなくなってしまうのでしょう。

もう一つ、学校の勉強もそつなくこなすので自分が取り組んだ勉強に対して挫折というものをあまり知りません。
学生時代の勉強は答えがあるので、やればできるのです。
ただ目標である受験に失敗してしまった時には、挫折感が大きくなります。

また、学生時代は頑張れば問題が解けるので何でもこなせるのですが、社会人になったらそういうわけにはいきません。
入社したては分からない事ばかりで仕事ができないのが当たり前なのですが、そんな自分を許すことができません。
それは時間が解決してくれますが、必ずある仕事での失敗や叱責はストレスを感じ挫折感いっぱいになってしまいがちです。
真面目だからこそ、ストレスを発散する方法もわからず、疲れているのに息抜きもできず、がむしゃらに戦い続けてしまう傾向にあります。

そこで考えるのは、「人生ってなんなんだろう」、「一生懸命真面目に生きてきてなんでこんなに苦しい思いをしなきゃいけないのか」ということや、「親の言う通り頑張って勉強してきたのに」、「頑張っていい大学に入ったのに」、「良いところに就職できたのに」、「なんで不幸なんだろう」というようなことだったりします。
挫折に弱い人はちょっとした失敗も考え込んでしまい、完ぺきにこなせない自分に苛立ち、人生の敗北まで考えてしまいます。

理想を言えば人間完璧がいいし、そうやって育てられてきたのでしょうが、人間の能力ではそれは無理な話なんです。
完璧より、むしろ不完全な自分を認め、失敗する自分に耐えられる力を身につける事こそ人生には必要だと私は思っています。
もちろん努力は必要だし、目標も大切なことですが、志望校に行けなくても、会社で失敗しても、夢がかなわなくても、それは人生の汚点ではなく、それを受け入れて成長していくことが人生の意義であって、そうであるならば不幸を引きずる必要はないんです。

そういった捉え方、考え方というのは無意識に親が教えてしまっていることが殆どです。
特に教育ママやお受験ママ、学歴至上主義の親たちにとっては学歴は死活問題ですからね。


少し長くなりそうなので、続きはまた、、
ちょっと極端ではありますが、この様に育ってきた人も、親の立場の人も、自分のためにも、子どものためにも続きも読んでみて下さい^^


当サイトへは下記よりお入りください。
PC版    お仕置きの部屋
スマホ版  お仕置きの部屋
モバイル版お仕置きの部屋

インスタ
https://www.instagram.com/kyosuke295/

幸せは幸福感

幸せになりたいというのはみんなが思う願望でもありますが、この幸せって何をもって幸せなんでしょうか。
みなさん幸せになるために努力をしていることはあると思いますが、幸せというのは何かというと、幸せを感じる事=幸福感です。
こんなの当たり前の話なんですが、難しく考えすぎてこんな単純なことに気づいていない人はとても多いようです。

親は子どもの幸せのために学歴重視で勉強をさせたりする家庭もありますが、これはいい大学に行けば、いい就職先があり、それが社会的ステータスを生み、経済的な安定と、それ相応の人と知り合って結婚できるという、幸せの可能性を高くするためのものでしかありません。

もちろんそういった”幸せになれる可能性”を高めるのはいいことではありますが、勘違いしてはならないのは、それで幸福になれるわけではないということです。
それらが揃っていたとしても、心に幸福感が生まれない限り、幸せにはなれないんですね。
自分の意志や力で生きてこなかったりしたら、生きている実感を感じることはできないし、自分の人生は誰のためのものかと悩み、そういった虚しさの壁にぶつかるのは時間の問題です。

また、自分より優れているであろう他人と比較ばっかりして自分をおとしめたりしていたらそれはそれで幸福感なんて感じることはできませんよね。
更には、一つの欲望が叶ったらそれで幸せなのに、その幸せに慣れ、更なる欲望を持ち、その繰り返しをしていると、いずれ叶わない欲望にぶち当たったりして、そうすると満たされなくなり、不幸感を感じてしまうのです。

結局は幸福を感じるのは心の持ちようという事なんですね。
他人と比較するのはしょうがありませんが、その比較の方法を変えていかなければならないし、今ある満足に慣れることなく、絶えず感謝し、初心を忘れない心は幸福感を得る必須条件です。

俗にいう、お金持ちは幸せだと思われがちですが、不幸感を抱えているお金持ちは沢山います。
もちろん心の持ちようで、幸福感を得ているお金持ちも存在していますが、それでも欲に限界が無ければいずれ心は不幸になっていきます。

逆に貧乏は不幸だとされていますが、心の持ちようで金持ち以上に幸福感を感じて生きている人は沢山います。
もちろんお金が欲しいとか、子どもにいい思いをしてほしいとかの欲望はあっても、それを半ば放棄していることによって、今ある幸せを感じることができたりします。

ただし、貧乏でそれを悲観的に捉え過ぎている人はとってもとっても不幸な人といえるでしょう。
何をするんでも自分を卑下し、どうせ私なんかという考え方をしてしまう、そういう性格の人は不幸のどん底に陥ってしまいます。
幸福になりたいのであれば、その部分の心の捉え方を変えていかなければどうしようもないんです。

日常生活ではうまくいかない事ばかりで、心の持ちようといってもそう簡単にはいきませんが、大きな波に飲み込まれようとも、必死にもがいてどこかにしがみき、息苦しさに耐え、なんとか自分を保っている人は多いと思います。
それでも幸福になれるようにするには物事の捉え方を変えていかないといけません。

お仕置きは幸せを感じる方法でもあると私は思っています。
キーさんの心理は、お仕置きで満たされるという単純な発想ですが、そこには奥深い心理的要因が隠されているものです。

ダメなところを叱られる愛情、
それでも見放されずに厳しい罰を与え、与えられる信頼感、
痛いお仕置きが終われば許されるという安堵感、
その後のスキンシップで、本当に自分のためを思って叱ってくれたんだという嬉しさ、地獄から天国への大きなギャップへの高揚感。

この一つ一つに幸福感があるのですが、更にそれが組み合わさったところに究極の幸福感が生じ、こうしたお仕置きの一連の流れで心が満たされるのです。
これも実は心の持ちよう、捉え方で、お仕置き心理を紐解くとこのようなことになるのでしょう。
だからこそディシプリンスパのお仕置きには、正当な理由が必要で、それに対するお説教、その流れでのお尻叩きの罰、そして許された後のアフターフォローが必須なんです。

心が悲鳴を上げているからこそ、お仕置き欲も強くなってくるのです。
そういった部分を満たすには、自分を晒して、それを受け入れてもらう事、その上で真剣に叱られること、それで前向きに考え方を直し、自分を成長させ、それを自分自身と叱ってくれた相手とで共有する。

単にお尻を叩くという事ではなく、お尻叩きはおまけみたいなもので、こういった心の部分を埋めることが本来のお仕置きだと私は考えています。
このお仕置き行為で一時的に幸福感を感じるのではそれはそれでいいことだと思います、そういう幸福感の受け取り方ができればそれを意識すればいずれ幸福になれる考え方もできると私は思っています。

このように考えるとお仕置きを依頼してもそれは変な行為ではないですよね、少なくても私のお仕置きはそういった考え方の元で構成していますから、お仕置きありきでもなく、対話や心のやり取りが重視なんですね。
幸せになるには心の持ちようで、幸福感を感じること、それを忘れないように日々の生活を見つめなおしてみて下さい^^


当サイトへは下記よりお入りください。
PC版    お仕置きの部屋
スマホ版  お仕置きの部屋
モバイル版お仕置きの部屋

インスタ
https://www.instagram.com/kyosuke295/

嘘の許容範囲 2

日常生活で人と関わるにあたっての必要な嘘でも、罪の意識を感じてしまう子、そこまで偏っていなくても、そういうことを少しでも考えたことがある子は、どうしてそこまで偏った思考になってしまったのか、それは真面目でいい子なキーさんに見られがちですが、その背景には何が隠されているんでしょうか、というところの続きですね。

そういう思考に偏り過ぎている子もいれば、少なからずそういった事を考えてしまう事もあるという子もいますし、度合いは違えど真面目でいい子を演じてきた子はそのような傾向があるのではないかと感じます。

優しさのための嘘でも
気遣いのための嘘でも
空気を読んだ嘘でも
心で思っていることと違うことをいったりしても

どんな理由があったとしても”嘘”をついてしまったというくくりで考えてしまい、他人を騙しているという罪悪感を感じ、偽りの自分を演じていることに虚しさを感じたり、心が苦しくなってしまうようです。
本当の自分を吐き出したい、本当の気持ちを伝えたい、そういう気持ちが心にあるのは事実です。

それじゃそれを言えるのかといえば、それは100%NOです。
なんでかというと、それがマナーでもあり、礼儀でもあり、なによりコミュニケーションには必要な事だということは誰よりも理解しているからです。

もっというとその根底には、自分勝手になりたいわけでもないし、場の空気を乱したいわけでもない、相手を傷つけたいわけでもない、そう思っているので言えないのは当然のことです。
じゃあなんで・・・・、とここから先は堂々巡りとなって、永遠と続くループとなっていってしまいますよね・・・。

本当の心はどこにあるのか、偽りの自分を演じたくないのも本心、しかし他人に迷惑をかけることは絶対にしたくないのも本心、そうなると、出口のない迷路のように答えがみえてこないのですが、少し角度を変えてみると隠れている本質がみえてくるのではないでしょうか。

本心はどっちなのか、本当はどう考えているのか、その本心は

自分を偽りたくないというのが実は本心で、それに付随して
本当の自分をわかってほしい
自分勝手でもいいから全てをさらけだしたい
わがままをきいてほしい
そんな私でも認められたい、そういう自分も含めて愛してほしい、それでも見捨てない無償の愛がほしい
というのが根底にあるんだと思います。

しかし、それを周りの人たちに向けてしまいたいと思うのは錯覚で、その向ける相手は実は親に対してということもあるのでしょう。
親に対してといっても今現在の親ではなく、幼少期の時の親にです。
幼少期に満たされなかった部分を、無意識に周囲の人に向けてしまっている、そういう思考になってしまっていると考えると、二つの相反する考えは矛盾ではなくなり、ストンと心に落ちていくような感覚になるのではないでしょうか。

どうしてそういう思考になってしまったかというと、それは幼少期に我慢してきたことが原因だと思います。
理由は様々で人によって違いますが、一般的には小さい頃にわがままをいったり、自分のしたいことをアピールするのは当たり前の行為で、それが健全な子供の心なのですが、その心を抑圧してしまったからでしょう。
理由としては

様々な環境から、両親に心配や迷惑をかけたくないと強く感じて自分を出さなくなってしまう
親の言動から、わがままをいったり、期待を裏切ったら見捨てられると思ってしまい、親のいいなりになってしまう
自分の下に妹や弟がいるから母親を譲らなければならない思い、甘えられないのは当然と思ってしまう
家族をバラバラにさせないようにと幼いながらに強く感じて、親の機嫌を取る為に必死に自分を偽ってしまう
幼少期に感情的に怒られ続け、そうならないようにと心を抑圧して我慢するようになってしまう

このような様々な理由やきっかけで良い子を演じてしまうことが多いでしょう、そうではなく、根っからの性格からそのように行動してしまう子も実際にはいます。
もちろん性格的な面もあり、同じ環境でもそうならない子はいます。
なのでこういう状況にない人には理解できないかもしれませんし、逆にこういう思いをした本人なら理解はできるでしょう。

本当はわがままを言ったり、自分の意見を言ったり、意思表示をしてありのままの自分をさらけ出したかった。
でもそうできなかった幼少期の満たされない思いは、記憶には残っていなくても心の中では消えないものです。
自分を偽って、本当の自分とは違う良い子を演じてること、それが母親や周囲に嘘をついているという認識になってしまいます。
でもそのように育ってしまうのは当然のことのように思います。

本来これは立派な気遣いの嘘(ついていい嘘)であって、子どもは幼いながらも葛藤して、自分や家族を守るために必死に気を遣っているものです。
しかし幼少期に自分を偽ること(嘘)が日常になっていたら、「本当の自分を偽っている」「周りを騙している」と思うのは当然のことでしょうね。
なぜかというと、我々は大人だから嘘は必要だと冷静に判断できるからであって、幼少期の子どもはその判断能力が欠けているからです。

特に子供の頃は嘘はいけないことだと教え込まれ、嘘つきは泥棒の始まりとか、地獄に行くよとか、狼少年の話とか、そうやって嘘はいけないと純粋に育てられます。
しかしまだ心も知能も成長初期なので”いい嘘”だとしてもひとくくりの”嘘”と認識してしまっても不思議ではありません。
だからこそ気遣いの嘘だとしても大人になった今でも罪悪感が残ってしまうのでしょう。

通常は子供の頃は嘘は悪いことと教えられていても、それから幼稚園(保育園)小学校、中学校、高校、大学、社会人と上がるごとに、気遣いのためには、そして他人と仲良くしていくには、つかなければならない嘘というものは必要だと学んでいきます。
気遣いの嘘や自分の思いと違うことを発言するのは、悪い嘘とは全く違う絶対必要枠であることは無意識にわかっていくことで、それが健全な成長過程でもあるんですね。
それが幼少期に抑圧された環境で過ごすと、良い嘘だとしてもマイナスの形で認識をしてしまうのはよくわかる気がします。

補足でいうと、正義として認識していたものが実は建前だったとか、大人の汚い世界を目の当たりにしてショックを受けたりとか、ある程度は世の中の嫌な部分も含めて受け入れなければ普通の精神状態での生活はできませんよね。
それを幼少期にぶち込んでしまったら間違った認識になるでしょうし、正常に認識をするには長い学生生活を経て、社会人になってと、長い年月をかけて少しずつ力をつけ身につけていかなければなりません。
それをいきなり幼少期にぶち込んでしまうのは、体力のない幼児に50㎏の荷物を乗っけるようなものです、当然つぶれてしまいますよね。

まぁだからこそ幼少期の教えを未だに信じているような真面目な不器用な子はとても生きづらい世の中なのでしょう。
でもそういう心は必要ですし、私はとってもとってもそういう人を尊敬をしています。
そして私を含めた臨機応変に心を対応できるような器用な人は、自分の心を守るためにそういった純粋さをどこかに置いていってしまったんでしょうね・・・。

真面目で不器用な子はそれができない、尊敬に値しますが、そういう子たちは生きるのが辛いという変な世の中です。
ま、話が少しずれましたが、気遣いの嘘は絶対に必要なので、罪悪感を感じてしまう人はそういう認識に変えていきましょう。
気遣いの嘘という人間関係には絶対に必要な技を幼少期に取得していたというだけの話です、こういった背景を振り返ってみて考え方を変えていきましょう。
罪悪感を抱える必要はありませんよ^^

ちなみに普通の人は気遣いの嘘については、罪悪感を抱えるどころか、嘘という認識はないし、大げさにいうなら相手に気を遣えた自分の広い心に満足しちゃう人までいますしね(笑)
認識が全く違うものなんです。

ただ、良い嘘、悪い嘘の基準も判断も範囲もそこは微妙に違うもので、そこでトラブルもあることも事実です。
そこは人それぞれの価値観や思想によって変わりますので、ここで書いた話は「一般的な範囲での良い嘘」ということですからね^^;


当サイトへは下記よりお入りください。
PC版    お仕置きの部屋
スマホ版  お仕置きの部屋
モバイル版お仕置きの部屋

インスタ
https://www.instagram.com/kyosuke295/

嘘の許容範囲

嘘には、「ついていい嘘」と「悪い嘘」とがあると思いますが、その境界線は人それぞれであり、その人の価値観によっても違うものです。
でもキーさん的な真面目なタイプの子の一部は、一般的には良い嘘といわれるものであったとしても、”嘘”をついているという行為で罪悪感を抱えてしまう子もいます。

それは自分を偽わって、周りを騙している、本当は良い子じゃないのに良い子のふりをしているという罪悪感です。
その度合いは人それぞれですが、それが極端になってくると生きるのがとても辛くなっていくものです。

人間は他人への気遣いのために些細ながらも嘘をついて生きているものです、これはほぼすべての人間がそのようにしているはずです。
逆に嘘をつかないで正直に自分の思いを発信していたら、ただの自分勝手な変わり者としてみられ、社会から孤立してしまうでしょう。

人は気遣いのために日常的に些細な嘘をついているわけですが、でもその嘘が自分を苦しめてしまうという人もいるんです。
かといって本心を言うと相手を傷つけてしまう、、、だから本心を隠して取り繕ったことを言うしかない、、、、、だけどそれが人を騙しているようで苦しい、、、、、、と、そこから逃げ出せないジレンマに苛まれ、そうなるととても生きるのが窮屈になってしまうようです。

つかなければならない嘘は普通にあるものです。
相手への優しさのためにつく嘘も確実に必要なものです。
周りの空気を読んで、みんなに合わせるためにつく嘘も大切であり、それがコミュニケーション能力というものでもあります。

このように、日常生活で自分が他人と接する以上、どうしてもつかなければならない嘘というものがありますが、そういった必要な嘘でも、大きな意味合いとしての「嘘」とひとくくりにしてしまい、他人を騙していると罪の意識を感じてしまうようです。

そこまで偏っていなくても、そういうことを少しでも考えたことがあるキーさんは結構いると私は思っているんですけどね。
どうしてそこまで偏った思考になってしまったのか、その背景には何が隠されているんでしょうか。

そこら辺のお話は次回に持ち越しします^^


当サイトへは下記よりお入りください。
PC版    お仕置きの部屋
スマホ版  お仕置きの部屋
モバイル版お仕置きの部屋

インスタ
https://www.instagram.com/kyosuke295/

失ってからの後悔

謝りたいことがあってもそれができない
感謝の気持ちを言葉にしたくてもなかなかできない
愛情を伝えたくても照れくさくて表現できない
優しくしてあげたい気持ちがあっても、つい冷たく接してしまう
伝えたいことがあってもそれがいえない

照れくさかったり、意地を張ってしまったり、甘え過ぎていたり、確執があったり、いつの間にか気まずい関係になったりと、いろんな理由はありますが。

でもそんな人たちは気づいていないんだと思います。
そういうことができなくなる別れもあるということを・・・。
命は永遠ではありません、健康な人でも明日何が起こるかわからないんです、永遠の命なんて存在しないわけですから。
気がつくのが遅かったと思っても、もう取り返しはつきません。

大事な人を失って初めて気がつくということはとてもショックなことですよね。
そうならないためにも自分の気持ちを素直に伝えることをしてみてはどうでしょうか。

最近私はそういった事例をよく聞きますが、もう二度と会えないからこそ気がつくんですね、気がつくのが少し遅い、そしてそういう事態にならないと気がつかないという人が多いものなんです。

両親も永遠に命があるわけではありませんが、まだまだ大丈夫と過信してしまいがちですね。
確執があっても、嫌いであっても、死んでしまったら何かしら後悔することもあるでしょう。
感謝の気持ち、親孝行、そして聞いておきたかったこと、教えてもらいたかったこと等、亡くなってから思いつくこともきっとあります。

両親に限らず、恋人、友人、大切な人などを思い浮かべ、明日もし何かあったとしたらと考えてみて下さい。
つまらないことで喧嘩をしたり、思ってもないことで相手を傷つけたり、ダメだとわかっていても相手の嫌がることをしてみたり、感謝の言葉、謝罪の言葉がいえなかったりと・・・・。
今の自分のままでいいのか、後悔しないか、そういうことも考えて勇気を出すきっかけにしてみて下さい^^



当サイトへは下記よりお入りください。
PC版    お仕置きの部屋
スマホ版  お仕置きの部屋
モバイル版お仕置きの部屋

インスタ
https://www.instagram.com/kyosuke295/

節目

今日は7月1日ですね。
上半期も終わり、今日から下半期、ついこの間年始を迎えたと思っていたらもう1年の半分が終わってしまいました。
1日1日は長いものですが、振り返ってみるとあっというまで、この半年間何をしてきたかと考えると後悔するものですよね。

今年の始まりである1月1日には多くの人が「今年の抱負」を考えた事と思います。
しかしそんなこと忘れかけていませんか?
こういう節目の日だからこそ、もう一度原点に返って、今年目標にあげた抱負を振り返ってみてはどうでしょうか。

あわただしい毎日、悩みや苦悩を抱えながら頑張ってきた毎日、1日1日はそんなこんなで必死で何もできなかった人もいるでしょうが、この6か月というスパンで考えると、日々少しでも何かをできたのではないか、それが積もれば成長できたはずではないか、そう考えると後悔を感じます。

節目というものはそういった日々の慣れを改めるためにもあるものです、大きな節目は年末年始ですが、その他にも様々な節目、行事がありますよね。
その都度の節目を意識して、自分を振り返り、怠慢や邪心などの心の”ケガレ”を落としていくのは大切なことです。

目標を立てて何かを達成しようとしている人でも、高い目標を掲げてしまうとなかなか自分の思い通りにならないもので、そういう自分に嫌気がさすことでしょう。
自制がなかなかできなくても、こういった節目を利用して原点に返って考えてみると、忘れかけていた初心がよみがえってくるものです。
長期間の自制なんてそもそもなかなかできるものでもありませんから、節目に初心を思い出し、その繰り返しでいいのではないでしょうか。

また、節目というものは何かの行事ごとに限らずに1日の中でも意識することはできます。
それは1日の行動の中で自分の節目を作ればいいんですね。
受験で長期間勉強漬けの人、資格取得で必死な人、会社の仕事に追われている人、毎日の生活に追われている人、人間関係で悩んでいる人、そういう人に必要なのかもしれません。

その節目は自分自身の神聖な儀式と考え、その都度自分を振り返り、邪念、邪気、迷い、病み等の”けがれ”を落とすんです。
節目は自分自身で決めなければなりませんが、例を上げると、朝家を出る時、会社や学校に入る時、誰かとあいさつを交わした時、勉強や課題に取り組むとき、仕事に取り掛かる時、夜寝る時、朝起きる時と何でもいいわけです。
人によっては朝早く起きての散歩やジョギング、掃除やラジオ体操でもいいでしょう。
また、靴を脱いだ時にきれい揃えたり、出かける前に服装などの乱れを確認したり、靴がきれいかどうか、そして身だしなみを確認したり、そういう事でも気が引き締まり、けがれが落とせるものです。

その節目の時に、少しの時間でも瞑想して心を無にしたり、深呼吸したりして、”けがれを落とす”儀式をしていくと気持ちに変化が起き、新たな気持ちに切り替わるものです。
どういう儀式かは人によって考えればいいことですが、それを毎日の日課としていけばといつも新鮮な気持ちで朝を開始できるのではないかと思います。

こういう考えで、気持ちを切り替える節目を作ってみたらどうでしょうか、ほっておけば心に”けがれ”は溜まっていくものです。
神社やお寺でお祓いしてもらわなくても、日々の小さな”げがれ”は自分で落とすことはできるものなんですよ^^

あ、、ちなみにお尻ペンのお仕置きは神社やお寺のお祓いよりも、違う意味で効果あるのではと私は思っているんですけどね^^;
”げがれ”を落としたい人は一度考えてみるのもいいかもしれません。


当サイトへは下記よりお入りください。
PC版    お仕置きの部屋
スマホ版  お仕置きの部屋
モバイル版お仕置きの部屋

インスタ
https://www.instagram.com/kyosuke295/

女性の暴言についての補足

前記事では女性議員の暴言について書きましたが、その補足です。

女性議員が暴言を吐いたことについての記事を書いてから
「私の周りにはそんな人がいないのでびっくりでした」とか「自分もそうなりそうで怖い」とか「人間としてどうかと思う」とかいろいろな意見が私のところに来ました。

でも周りにそんな人がいないからびっくりというのは当たり前の話で、それは親子や兄弟間、恋人同士の前でしか出さないから、自分が感情的に怒ってしまう人間でない限り、女性がヒステリックになって男言葉を使うという現状がわからないし、そんな人がいたとしたら異常だと思ってしまうんです。
甘えられる相手だからこそだしてしまう、そして感情を出して怒る事がイライラのストレス解消になり、しかも快楽にもつながっているために一度暴言を吐けた人間には癖のようになって繰り返してしまう事になるものです。

そういう行為がどうしても直せないということで悩み、それで私のところに相談に来る人も結構います。
それぞれその人なりに真剣に悩み、自分で直したいけれでも、どうしても感情的になったら出てしまい、そのたびに自己嫌悪に陥り、悩み苦しんでいるのです。
そういう人は子供を持つ親でも普通にいますし、そういう親に育てられた子供もそうなりたくないのに出てしまうと苦しんでいるのが現状にあります。

実際に感情的に怒る行為というものは一度身についてしまったら自分ではなかなか直せないものなんです。
それは周りの環境でそうなるからで、その環境というのは生まれた時からずっと一緒だった親の言動であったり、仕事場やプライベートな仲間内の影響であったりです。

その人たちが感情的に怒ったり、汚い言葉遣いをしたり、怒った時の表現が暴力的だったりすると、自然とそういう表現が身について、怒った時の怒りの表現が暴力的に、暴言的になってしまうものです。

それはちょっとしたイラつきでは出てこないのですが、更に感情的になり、それが自分の我慢の限界を超えてしまった時にでてきてしまうものなんです。
ある程度怒りの沸点を高く設定できたとしてもそれを超える怒りが訪れるとやはり出てきてしまうんですね、だから怒りの沸点を高くしたとしてもそれを超えてしまう事があると抑えることができない、とても厄介な事でもあるんですね…。

我慢の限界を超えて感情的になった時には怒鳴ったり、それで収まらなければ男みたいな言葉遣いで暴言を吐いたり、それでもまだという人は物を投げたり人を叩いたり、物に当たったり、とエスカレートしてしまいます。

しかも、一度そういう感情的な暴言を体験してしまったら、その場では心がスッキリするものなんですね。
それは大声を出すこともそうなんですが、それによって相手を威圧し、加えて、乱暴な言葉遣いで相手を怖がらせ、物を投げることで威嚇したりと、そうやって相手をとっちめることにある種の快楽を感じてしまうんです。
それを一度でも経験すると、それがないとイライラが収まらなくなってしまうからどうしてもやめられなくなってしまうのです。

ただ、そういう態度を出せるのはある特定の人だけで、一度その態度を出してしまった相手にはまた繰り返してしまい、もう止められない麻薬のようなものになってしまうんですね。
特定な人だからこそ、表には出ず、感情的に怒ることをしない人にとっては「信じられない、周りにはそんな人いない」となってしまうことにつながりますが、実際は結構いるものです。
だから単に女性の暴言といってもかなり深刻な問題なんですよね。

そして深刻に悩み苦しんでいる人は結構います、これは親が子供を虐待してしまうというものに非常によく似ていて、そういう人はその自分の行為に後悔し、やめたくてもまたしてしまうという罪悪感、嫌悪感、絶望感に苦しんでいるわけです。

特にこういう感情的になってしまう人は真面目な職業に多いのも特徴的です。
前記事に書いた議員さんもそうですが、学校や幼稚園の先生、公務員の人等、人前ではしっかりとしていなければいけない人や聖職者的な人に意外と多いものです、それは過度なストレスがかかる仕事ということと関係があるでしょう。
仕事場ではしっかりとしていても、家に帰ると親であれば自分の子供や、子供であれば自分の親に暴言を吐く、また自分を出せるくらい近く、そして甘えることができる恋人に暴言を吐いてしまうんです。

他の人に対しては大人しく真面目で通っているのですから、まさかこの子がなんて想像もつかないことでしょう。
でもこういう人たちは真面目だからこそうまく息抜きができないで、ストレスばかりが溜まってしまうのでそれが一番の原因なんだと思います。

ある程度いい加減な人は適当に息抜きしたり、サボったり、ダメな部分を出して解消するのですが、真面目な子は特に不器用で、息を抜くことを知らずにストレスばかりをためてしまいます。
だから真面目な職業の女性に感情的な人が多くなってしまうのかもしれません。
はたからみたら真面目な人ほど意外って思うでしょうが、私からしたらそれは当たり前のように感じます。

自分を見つめてそういったところを直していこうと思う気持ちは大切なことです。
まずはそういった気持ちが無いと始まりません、何度も繰り返してもその気持ちだけは持ち続けることが大事なんです。
自分ではうまくいかず自己嫌悪を繰り返しているのはあなただけではありません、そういう人はたくさんいるんです。

もし本気で直したいのであれば私も話を聞きますし、そういったことを第三者に話し、客観的に話をしてもらい、自分の決断をより固めたり、違う方向から物事を見つめられたりもしますので、まずは今までと違う変化へのチャレンジをしてみて下さい。
そうすることによって何かが変わるはずです、変わった何かでまた気が付くことも出て来るでしょう。
成長とはそういう事でもあるのでまずは自分を変えるために今の現状から一歩抜け出してみてはどうでしょうか。


当サイトへは下記よりお入りください。
PC版    お仕置きの部屋
スマホ版  お仕置きの部屋
モバイル版お仕置きの部屋

インスタ
https://www.instagram.com/kyosuke295/

自分らしく生きることについて

自分らしく生きるってどういうことなんでしょうね。
自分らしく生きるということは、偽りの自分ではなくありのままの自分でいるということなんでしょう。
ただそれがなかなかできないでいる背景には、自分らしくすることが必ずしも幸せにつながるとは限らないからなんだと思います。
自分らしく生きることができないでいることで自分を責めてしまう人はかなりいます、特に真面目に育った子というのは、少しでも自分をつくろっていると、それだけで嫌になったしまったりするようです。

そもそも自分らしさってなんなんでしょうね。
少なくても自我をそのままだし、自分勝手にやりたい放題行動することは違います。
それは理性をコントロールできない社会不適合者です。
自分らしさといっても最低限のマナーや気遣いは絶対条件です、それは守られた社会の一員としての義務だと思います。

では何事にも正直で、そして嘘をつかないことが自分らしさでしょうか。
私はそうは思いません、私は嘘には「ついてはいけない嘘」と、「つかなければならない嘘」とがあると思っています。
しかし真面目な人ほど、他人に思ってもいないことを言ったりすることをお世辞や媚びを売るというような解釈をしがちで、そういう自分が嫌になるようですね。
それでも他人に気を遣ったり、不快にさせないようにすることは必要なことで、それはお世辞や媚びを売るということではないはずです。

私たちは他人がいるから存在価値があるわけです、それは間違いのない事実です。
もし人類が自分ひとりであれば自分が存在していること自体誰にも認識されないわけですからね。
そうだとすれば、他人というものはとてもかけがえのないもので、そういう人たちとのコミュニケーションというものはとても大事になってきます。

人の悩みの全ては対人関係と言い切っている心理学者もいるように、悩みの根本は全て他人と関連してくるものです、だからこそ相手を不快にさせない言動というものが大切になってくるんですね。
人間がそれぞれ正直にものを言っていたらとんでもない社会になるでしょう。
でも気遣いによって相手を思いやり、自分が思っていることと違うことを言うことは、他人とのコミュニケーションをとるためには必要なことです。

そのことにしっかりとした”信念”を持っているのであれば、自分に嘘をついているわけではなく、自分の信念に基づいてつかなければならない嘘をついているということで、それが自分らしさでもあると私は思うんです。
お世辞を言うとか、媚びを売ることについて、そこに信念がなければそれはただの卑しい言動です。
でも相手を気遣い、時には嘘をつくということは、極論で言うと、それが相手の幸せ、そして自分の幸せに繋がるはずと思います。

自分らしさとは、自分がしたいことをすることでもあり、それは幸せに通じることです。
自分がしたいことが「他人を不快にさせないこと」というのであれば、それが本人にとって、幸せな事であり、自分らしさであり、信念でもあるわけです。

他人を不快にさせないとか、嘘をつく、つかないというようなことを除いても、自分らしさというものは様々です。
自分のために生きることに自分らしさを感じる人
逆に他人のために生きることに自分らしさを感じる人
更には自分を苦しめることに自分らしさを感じる人(苦行等)

自分のしたいことというのは個人の欲求であり、その欲求が満たされれば幸福感を感じます。
その結果、精神的に安定し心の健康が保たれるわけです。
人生において何が自分の幸せなのか、何を目指して生きていきたいのか、どんな自分になりたいのか、自分が死んだときに後悔しない生き方は何か、何をしていたら満足できるのか。
出来上がった常識に囚われずに本当の自分と向き合うべきだし、それが自分らしさなんだと思います。

こういったことを整理していけば自分らしく生きることとはどういうことなのかということも分かってくるのではないでしょうか。



当サイトへは下記よりお入りください。
PC版    お仕置きの部屋
スマホ版  お仕置きの部屋
モバイル版お仕置きの部屋

インスタ
https://www.instagram.com/kyosuke295/

真面目な子たちの葛藤

真面目な子って何が真面目なのかというと難しいですよね。
表向き真面目な子でも心の中では腹黒い人(人間ですからこれが多いです)
自分のダメなところを見せたくなくて必死な人
悪く思われたくなくていい子を演じている人

それぞれ考えは違えど、私はどれも根が真面目な子だと思っています。
不真面目な子はそんなことどうでもいいわけですからね(笑)
でも、真面目な子って完ぺきにこなそうとするから心の中はかなり追い詰められているんですよね。

自分の悪い部分やだらしない部分をさらけ出したくてもなかなかできない、悪いことをしようとしても勇気が出ない。
そういう子はいい子であることが当たり前になっていたり、見放されてしまうかもという恐怖があって、ありのままの自分を出したり反抗したりの冒険ができないでいるんですね。
そのままでいいんだよ、それでも好きだよ、と言われることで自分の甘えの欲求を満たしたいという思いがあるのに、見捨てられることに怯えて自分を出せないでいるのでしょう。

人間は一人では生きていけません、そしてどんなに頑張っても、人によって得手不得手があるようにできないことはたくさんあります。
しかし根が真面目な子は、できない自分を認識する度に自分を責めてしまい、自己嫌悪を繰り返し、自分の存在意義を問い、必要とされていないんじゃないかと思い込んでしまう傾向があります。
そんなことを日々考えて一人で抱えこんでしまっては、当然心がもたないですよね。
自分の嫌な部分を受け入れて、それを許して、ある程度自分を甘やかすことは精神衛生上必要な事ですから。

それと中には自分に対して厳しく、他の人よりもレベルの高い自制を自分に科してしまう人もいます。
要は自分のいい加減な部分、至らない部分を認められないのです。
本来はそれを認めてあげることがストレスの発散や精神の安定につながるのですが、周りの目を気にしすぎて自分を追い詰めてしまうのです。
そういう子たちのほとんどは、悲観的でマイナス思考、そして見捨てられ感も強いんです。

それは、これまでの人生、自分が良い子でいたから受け入れられていたんだと思い込んでいたり、逆に親や友達から受け入れてもらえなかった環境であったりと様々です。
悲観的であるが故に、優しくされたり、過保護であったり、叱られなかったことも「愛情がないんじゃないか」と思ってしまったり、感情的に怒られたり、理不尽な言動をされたりしたら当然心に傷を負ってしまうんです。

悲観的な考え方で生きていると、自分が悪い子だと親からも周りからも見捨てられてしまうという考えが植え付けられてしまうのも無理はありません。
子供のころからそういったものを引きずっていると、大人になっても「見捨てられてしまうのではないか」という意識で人と接してしまう傾向があるからです。

根が真面目な子でもこのように様々なタイプがありますが、だからこそ甘えることに欲求を覚えたり、叱られても見放されない愛情を求めてしまうんだと思います。
その求める行為がお仕置きへとシフトしていくんだと思います。
それでも見捨てられる恐怖はあるのですが、その気持ちを受け入れる約束のお仕置きの関係は、3次元の空間としては唯一の居場所となっているのかもしれません。

『大丈夫、失敗したっていいし、過去に何があっても、どんなひどいことをしてしまってたとしても見捨てたりしないよ』
そんな大きな愛情を求めてお仕置きに惹かれていくのでしょう。
もちろん無条件というわけではありませんよね、しっかりとダメなことはダメと叱り、そういったことを清算するためにお仕置きがあります。
だけど、どんなに叱られても叩かれても見放されない愛情がそこにはあるんです。

そういう子たちは人に弱みを見せることは苦手です、でも逆に弱みを見せても嫌われることはないと無意識に求めている部分があり、実際に弱みを見せれるようになれば心が軽くなり、もっと心が満たされます。
見放されてしまう恐怖はいつまでも持ち続けることはありますが、それでもお仕置きの時はそんな日常とは違うので、見放される恐怖に蓋をして満たされようとできるんですね。
そういうことを繰り返していけば、弱い部分を出しても嫌われることはない、というのが少しずつ確信へと変わっていけるかもしれません。
自分のダメなところや弱さに向き合える場所、それがお仕置きの世界では可能なんだと私は思います。

お仕置きとはただ単にお尻を叩くだけではありません、心を満たして上げ、信頼関係の中から少しずつ自立を促したり自信をつけたりと、ある種のメンタルトレーニングでもあると思っています。
お仕置って本当に理にかなった行為だなって感じます^^

真面目な子たちの葛藤ってあまり聞かないのは真面目だからこそこんなこと話せないと思ってしまう事で周りに周知されないだけなんだと思います。
私はそれをいろんな根が真面目な人から聞いているのでよく知っています。
心の葛藤は辛いものです、まずは他人の力を使ってでも自分の心を満たして上げること、それが大切だと私は思います^^


当サイトへは下記よりお入りください。
PC版    お仕置きの部屋
スマホ版  お仕置きの部屋
モバイル版お仕置きの部屋

インスタ始めました
https://www.instagram.com/kyosuke295/



心が苦しい時

人間は弱い生き物ですから一人で生きていくことはできないのではないかと私は思います。
一人というのは地球上に一人ということではなく、孤立して一人という意味です。
心が苦しい時、精神が病んでしまったときにどうやってそれを乗り越えればいいのでしょうか。

それを自分一人で抱えてしまう人は一番つらいでしょうね、それは吐き出す場所がないからです。
それでは他人に吐き出せばいいのかというと、どうしようもない弱音や愚痴を吐いたときに
「みんな辛い思いをしているんだから頑張りなさい」
「そんなのたいした問題ではない、そんなことで悩むな」
などといわれたらそれもまた辛いですよね。

愚痴を吐いたことを否定され、自分の気持ちを理解してくれないと、逆に落ち込んでしまう結果になってしまいます。
その結果、誰にも話ができないと殻に閉じこもってしまうこともあり、誰にも気持ちを理解してもらえないとより辛くなってしまいますよね。
その結果、自分が悪かったのかと責めてしまったり、自分が間違っていたのだと自分に言い聞かせたりすることもあるでしょう。

でも他人に否定されてしまったのは、あなたが間違っているのではなくて、相談した相手選びを間違えただけなんですね。
人によっては自分の価値観でしか判断できない人もいます、それにあなたを否定した人であっても、それは励ますために、その人のためを思っていっていることなのかもしれません。
だからこそ行き場がなくなって、追い詰められて余計に落ちてしまう結果となってしまうんでしょう。

否定されたということはあなたが間違っているといわれているのと同じですよね。
でもこれだけは言えます。
あなたは間違っていないこと、あなたの思いは正しく、だからこそ苦しんでいるんだということです。
それを理解しくれる人、共感してくれる人が必要で、その上で選択肢を与えてくれたり、アドバイスをくれたりして前を向かせてくれるような人が必要なんです。

似たような悩みを持つ同士が弱音を吐きだすことで思いを共有して気持ちが楽になる。
「しんどいのは私だけじゃないんだ」と自分から気が付くことができれば、勇気ややる気が湧いてくることがあります。
よく弱音は吐くものじゃないといわれることがありますが、私は弱音を吐くことは決して悪いことではないと思うんです。
むしろ心にとって悪い事は、辛い気持ちを一人で溜め込んでしまうことだと思っています。
また似たような環境にいる人ではなくても、しっかりとあなたを理解してくれる人がいれば心が軽くなるはずです。

ただ、そういう相手がいない人や仲間がいない人は、話をしっかりと受け止めて聞いてくれる人を見つけることをしなければなりません。
でもそれを見つけるって非常に難しい事ですが、そういう人がいる人ってとっても幸せなんじゃないかなって私は思います。


私はこの活動を通してお尻叩き抜きにしてもそういう人たちの心を少しでも楽にできたらなって思っています。
それは偽善ではなく、私の言葉や考えで人の心を軽くできるのであればそれをしたいんです。
そんなの面倒臭い、そんなのできない、よくできるね、とよくいわれますが、私はそんなこと思ったことはなく、むしろやりがいを感じるくらいです。

病んでいること、悩んでいること、罪悪感、満たされない気持ち、仕事の事、人間関係、異性との悩み、性の悩みなど、私はお会いした時そういったことを聞くようにしていますし、その時にいろいろな相談を受けています。
そして私は利害関係のない第三者なので話しやすいと思いますし、客観的に話ができるという点でも利点はあると思います。

心理カウンセラーのように受容的に傾聴するだけではなく、本質を見つめさせて前向きになれるような言葉を発信していますから、心の焦燥を晴らしたいと思う人は吐き出してみてください。
心が苦しい時、罪悪感に苛まれている時に、心を吐き出す居場所があるって大切なことだと思います。
話を聞いてほしいなって思った人はカウンセリングのみでも大丈夫なので、サイトの方から連絡ください。



PC版    お仕置きの部屋
スマホ版  お仕置きの部屋
モバイル版お仕置きの部屋

愛とお金の両立

愛情かお金かって永遠のテーマみたいになっていますけど実際問題はどうなのでしょうかね^^

私の経験上、お金持ちの人は愛情を欲しており、貧乏人はお金を欲している人が多いように感じます。
ただ、貧乏人でもお金より愛情だって頑なな人がいますよね、とても素敵です。
結論から言うと私は最低限生活できるお金と愛情があるのが一番かなって思います。
まわりと比較してしまうから貧乏人の枠があるのであって、本来は生活できさえすればいいわけですよね。
ただ、飢餓に苦しむほどの貧乏ではさすがにお金となってしまいそうですけど・・・。

昔はぜいたく品といわれていた物が今では生活必需品となっていたりしますよね。
まわりがみんな持っていればそれは必需品と化してしまうんですね。
携帯電話、テレビ、クーラーなんかもそうですが、それは固定電話、ラジオ、扇風機でも代用できます。
クーラーだって3,40年も前だったら家庭ではあまり普及していなかったですからね。

それでも熱中症になる人が少なかったのはクーラーがなかったため体が自然に体温調節が出来ていたからということもあるんでしょう。
人間には寒さや暑さに体操する調節機能が備わっていてあまりにも年中同じ気温で過ごしてしまうとその機能が働かなくなってしまい風邪をひきやすくなったり免疫力が弱くなったりしてしまうこともおこるんです。
確かに今は昔と比べて多少気温は高めですが、文明の進化が進むにつれて体の機能は衰えていると感じます。

また、今では子供同士ではゲーム機が必需品となっていますよね(汗)
物価も2,30年前から比べてそこまで上がっているわけではないと思うんですけど、給料は上がっているんです。
いつもバブル期の給料と比較しちゃいますが、あれは異常事態であって普通の給料はいくらなのかはよくわかりませんし、いまが正常なのかもしれません。

テレビや冷蔵庫、クーラー、コンポなどの電化製品は2,30年前から比べるとかなり昔より安くなっていますよね。
それに今は100円均一でなんでも買える時代なのでそういう意味では2,30年前から比べて物価は下がっているような気もします。
上がっているのは土地と家賃くらいで生活必需品は同等かそれ以下になっているような気がします。
給料が上がっているのに(バブル時代からは下がっていますがもっと前に比べてです)物価はさほど変わらない。

でもみんな生活が苦しいと悲鳴を上げています。
こうやって過去を振り返ると今は過去よりたくさんの贅沢品がないと生活できなくなってきて、それで悲鳴を上げているに過ぎないと感じます。
塾代などの教育費もみんながやっているから必需となっていることもありあすし、まぁそれが時代と言われればそれでおしまいなんですけどね。

私は貧乏の中でないと幸せを感じることは難しいと思っていて、そういう意味で贅沢をさせない政治というのは必要だったなって感じます。
なのであの幸せの王国「ブータン」が話題になったときに私は”これだ”と感動してしまいました。
贅沢の中では幸せはあまり感じませんが、同じことでも貧乏の中では幸せに感じることがたくさんあるんですよね。

幸せに感じることがあれば心も満たされ心が豊かになれるんです。
それが人間にとって一番大切というか必要なことだと私は思います。
これはお仕置きにも通じるところがあって、やっぱりお仕置きの後は心が満たされて幸せな気持ちになれるんです。

話がそれてしまいましたね^^;
何が言いたいかというと、いくらお金があっても心が満たされない限り幸せにはなれないし愛情がない限り幸せにはなれないと思うんです。
お金があれば不自由なく暮らすことはできますが、それは肉体的な幸せであって精神的な幸せではないはずです。
お金があって愛があれば申し分ないように思えますが、それがなかなかうまくいくものでもないんですね。
金持ちには金持ちなりの悩みもあるんです。

貧乏人ってお金がない分、好きな人とはお金で一緒になったわけでもなく愛情があるから一緒になるんですよね。
お金以外の性格や人柄やいろいろな面の人間性を好きになるから一緒になるんです。
これは友達でも親友でもそうですが、お金が無くても付き合えるってことは人間性が好きだからなんですよね。

でも金持ちって”お金”が介入することによって大事なものが見えてこないんですね。
金持ちで性格の悪い人って結構いますがそれでもそういう人には友達が多いんです。
普通は友達なんてできませんよね、だからこれは金の力の友達なんです。
で、可哀想なことはその金持ちの一部は自分の人間性が好きでみんなが群がっていると勘違いしていることです。

私はそれに群がる人になるのは魂を売るような感じがして絶対にしたくありません。
だからいくら大金を積まれようが私は買われることはないです。
まぁ私なんて買う価値はありませんけどね(笑)

だから私はお金持ちでもその人の人間性だけを見てお付き合いをするし、お金持ちだという面はプラスではなくてマイナス要素としてその人を見てしまいます。
それでも性格のいい人、心の優しい人はいるものです。
そういう人とは仲良くしますが、知れば知るほど不幸な人だなって余計可哀想に思えてくることもあります。

相手を信用して、それが友情や愛情だと錯覚して結局は騙されてしまうみたいなことがしょっちゅう起こります。
そういう面でお金持ちの人は「所詮私の価値はお金でしかないんだ」と悩んでしまうこともあります。
お金がある以上、これが一生続くし、そうなると精神的には苦しいして、完全に幸せな気持ちになれることはないんじゃないかなって心配な面もあります。

金の力があると、他人から見て自分は人間としての自分を好きなってくれたのか、お金を持っている自分が好きなのかが分からなくなるんです。
そういう意味では不幸なだと私は思います。
相手は口が裂けても「あなたのお金に魅力があるんですよ」なんていえませんからね(笑)

一緒にいる人が心でどう思っているのかは感覚でしか分からず一生疑念を抱いて死んでいくのかもしれませんね・・・。
その点貧乏人はそういう心配はありませんから、変な話、そういった意味では私は幸せだなって感じます。
だから私は金持ちにはなりたくないと思います、それでも生活に困らないほどほどのお金は必要ですけどね^^;

これに似たようなもので、芸能人や有名人も金持ちと同じで、一緒にいることがステータスだったりと、人間性でなくほかの部分に惹かれているという面では可哀想に思います。
持ち上げられて我侭が通ってしまう世界なので性格が悪い人も多いみたいですし、それを叱る人もいなければ、たくさん人が集まってくるので錯覚してくるんでしょうね。。

ちやほやされていると何が大切で何が必要かっていうところが見えてこなくなってしまいます。
天狗になるといいますが、そういう生活を送っていると感覚が麻痺してしまって普通には戻りにくくなってしまうものです。
それでいいと思う人も、もし自分の地位や名声が崩れたら後には何も残りません。
所詮その人の魅力で集まったわけではなく金やステータスで集まっただけなので陰りが見えたら誰も残ってくれません。
もし残ってくれた人がいたとすれば、それこそ友達です。

まぁそんな人でも私のところにくれば悪いところやダメなこところはしっかりと指摘して真剣に愛情を持ってお説教してお仕置きしてあげますけどね(笑)
私を必要としてくれて聞く耳を持って前向きであるならばそういう子は私は大好きですしいつまでも見守っていてあげます。
ちゃんと秘密厳守しますし、個人情報はしっかりと守るので本当の人間性を見てもらいたい人はどうぞ^^


話を戻します^^:
結局今の時代ってお金お金ですよね。
でもお金で愛情や友情は買うことはできません。
買うことができてもそれは偽物の愛ですから心は満たされません。

お金で幸せに感じる人はお金を愛しているのでしょう。
人とのコミュニケーションがなくても幸せと感じるならばそれもいいでしょう。
少くても私の考えは、人間は他人がいるから生きているのであって生まれた意味があるのだと思っています。
だから私は四六時中仕事をして金儲けするのではなく仕事は最低限にしてできるだけ人とのつながりを持つ時間を大切にしています。

もう一ついいたかったのは貧乏人の苦労もあるけども金持ちもそれなりの苦労はあるってことです。
金持ちの家庭や有名人の家庭に生まれた人ってそれをどうすることもできませんからね。
貧乏な家庭に生まれた人は金持ちの家庭が良かったと思うし、金持ちも愛情や友情といった面では金持ちの家庭に生まれたことを悔やむこともあるでしょう。
結局人間はないものねだりなんでしょうけども、やっぱり一番は愛情のはずです。
それが言いたかっただけなんですが、だらだらと長くなってしまいました。

お金は持ちすぎると心の弊害がでてきます、根本は愛情や幸せが人間の心には必要ですからね。
最低限生活できるお金が保障されていると安心なんですけどね、なかなか難しい問題です。
お金を持っていれば無条件に幸せということではありません、だから今の幸せを大切にする、当たり前のことは当たり前ではなく、感謝の気持ちを持てるようにする。
それが幸せになり、心が豊かになることの第一歩となることにつながることは間違いないですから^^

今日から気持を切り替えて、意識を変えて生活してみましょう。

自分本位な優しさ

相手のことを想って優しさを表現するのってとても難しいことです。
何でかというとそれが相手が求める優しさなのか、求めていない優しさ(または嫌な事)なのかは分からないからです。
自分だけの思い入れの優しさは相手を傷つけたり疲れさせたりする場合もあるんですね。
私はそれを「自分本位(自分勝手)な優しさ」と表現してよくお仕置きの時に指摘するのですが理解するにはなかなか難しいところでもあります。

相手を想っていろいろと考えているのにも関わらず、結果相手の意に反する行動をとっていたり
相手の気持ちを察しているつもりで発言しても、それが相手にとっては不快な言葉だったり
相手と話もしていないのに勝手に自分で結論を出し、それが一番の選択だと思い込んだり
相手を想って一方的に身を引いたり、そういうことを匂わせてしまったり
相手の都合を考えて行動したつもりでも逆に相手の生活や計画を台無しにさせてしまったり
相手の発言を悪い方向に捉えて気を使っても、実は考えすぎで逆に嫌な思いをさせてしまったり

まだまだいろいろあるでしょうが、しっかりと話し合うことをしなければ相手の意向は分からないし、たとえ話をしたとしてもお互いに遠慮や壁があったらそれこそ踏み込んだ話は出来ないものですよね。
勝手に察するのはいいですが、その推測が間違っていたら相手の意に反することになり、それは最悪の結果です。
そういう人は察したことが絶対に間違っていないと思い込んでしまうため、その結果両者とも嫌な思いになり、誤解のままになっててしまうことになりますし、そのすれ違いで誤解のまま友達関係が終わったり、恋愛関係が終了したりということにもなり得ます。

優しさを受けた側が仮に不快に感じたとしても”心の優しい人”はその優しさに対して「ありがとう」とか「わかった」と気を使って返答するものです。
でも心の中身は余計苦しくなったりして更に気疲れさせてしまいます。
当の本人はそんなつもりは毛頭なく本心で励ましたり考えたりしているのですが、それが更に相手を追い込んでしまうことに繋がることもあるんですね。

人って気を使われて発言された言葉や行動を不快に感じても、さすがに気を使ってくれた人に対しては何もいえませんよね。
だから当の本人は相手がそう思っているなんて想像すら出来ずにいるんですね。
社会生活は人と人とのコミュニケーションで成り立っており、それがうまくできないと心が不安定になってしまいます。
だから不快に感じてしまっても大人の対応としては「ありがとう」といわなければなりません、というかそのように返答する人は多いでしょう。

なんでかというと相手がどれほど自分のことを考えて声をかけてくれたのかは分かっているからです。
でも自分のことを考えてくれたことで”ありがとう”といいますが、心の中身は「分かってくれてないな」と考えているもので、「ありがとう」といわせる事で気を使わせ、余計に苦しませることになるのです。

自分自身が、そう想ってくれたら嬉しい、やってくれたら嬉しいと思う言葉や行動でも人によっては嫌な場合がありますからね。
いろいろな人を見ていると、そんなことの繰り返しで相手を疲れさせてしまい、パートナーと自然消滅になったり、友達関係が気まずくなったり、恋人と原因不明で別れたりすることも結構あるのではないかなと感じます。

こういうことってとてもデリケートな問題で、相手からは指摘されないことが殆どなので自分本位の優しさになっていないかどうか十分に気をつける必要はあると思うんです。
私の場合は相手がお仕置き相手や私を信頼してくれる人であればそこを指摘し教えてあげます。
それは自分のことであっても他人のことであってもです。
そこまでの相手でない場合は相談されたらですがアドバイス的に匂わしてあげることはしています。
でもそこって本当にデリケートな問題なので最初は指摘しても受け入れるのはとても難しいことなんですね。

特にお仕置きに憧れを持ってしまう子って構って欲しいのが根本にあるので自分本位の優しさで気を引こうという気持ちがあるんですね、まぁだからそこが自分本位なんですけどね(笑)
だからその優しさを理解して感謝してあげないと拗ねてしまったりするし、指摘すると人間不信になったりしてしまうんです、とても厄介なんですね。
これでは感謝してほしいから優しくアピールしているだけで、もしそういう優しさなら優しさとはいえず、本末転倒です。

まぁ何かをしてあげているのに感謝の言葉もない人はそれはそれで失礼な人ですし、そんな子はお仕置きですが、もしそうだとしても見返りを求めない無償の愛での優しさであればどうでもいいことでしょう。
親は子供が喜ばなくても何かをしてあげたいという気持ちでしてあげているので、喜ばなくても感謝がなくても気にしないものです。
気にしたとしても他の事してあげたほうがよかったかなと自分の判断を気にするでしょう。
もちろん子供が感謝をしないからといって拗ねてしまう親はいますが、それは精神が子供なだけです、気持ちは分かりますけどね^^;

こういったことを私が指摘したとしても本心では少しは理解しているはずなのに、その通りだと認めたくないので意地でもその優しさを理解して認めて欲しいと頑なになってしまうんです。
自分の優しさに反応や感謝をしてくれないと機嫌が悪くなるのは、結局は大人になりきれていない部分であり、相手に対して甘えたいっていうことなんだと思います。
優しさって本来は甘えさせてあげる行為であるのに、そうではなく自分が甘えたいからそれをしたい、だから自分本位なんですね。

まぁ本当にこういうことの指摘はしづらいですが、私は相手を成長させてあげたいという思いとそういう関係性があるのでしっかりと教えこみたいんです。
それが私のしたいことでもあるので曖昧に妥協をすることはありません。
優しい気持ちは凄く分かるんですけどね、でもそれは自分本位の優しさだよって教えてあげます。
冷静に客観的立場でお話をするのですが、構ってオーラが強い子はショックが大きいみたいです。

つい自分本位の優しさを出してしまう人はきっと、何か自分の発する気の利いた言葉や行動で相手を元気づけたいという気持ちが強いんだと思います。
でも結局はしてあげたことに対して感謝の言葉がないことでイラっとしてしまう。
これだと自分をアピールしているに過ぎないんですね、だからその優しさを理解してくれないと怒ってしまうことが多いのでしょう。

といっても相手を思いやる気持ちはとても大切で、それだけの目で見るととっても素晴らしいし優しい心の持ち主なんです。
でもそれは所詮自分が相手にそうしてあげたという、自分の”優しさ”に酔っているだけで深層心理では相手への思いやりではなく自分に向けられたものであって、だからこそ自分本位の優しさと表現しているんです。

厳しいようですがどうですか?
もし自分の言葉や行動で相手が不快だと感じていたと知ったらそれが優しさだと本当に思えるでしょうか。
それでもそう思ってしまう人は、それこそ「ここまで考えてあげたのに」と不快になったり落ち込んだりするのでしょう。
結局相手より自分なんですね、少なくてもそこで相手を不快にさせてしまったことに対して申し訳なかったと思えなければ相手を想っている事になりませんからね。

分かりやすい例で言うとお葬式で「早く元気になってね」とかいう言葉も人によっては受け入れられない言葉でもあります。
鬱病の人に「がんばって治そうね!」って励ますのも苦しめる原因になります。
相手の気持ちに立って何か発しようとするときは自分がいわれて嬉しい言葉を言いがちですが、それは人それぞれの感性によって違うので難しいんです。

相手の気持ちになろうともそれができない場合もあるのですからね。
だから葬式の「ご愁傷様です」という言葉って便利だなって思います、それは無難な言葉であり最大の思いやりの言葉だからです。
言葉が見つからなければ無理に言葉を作らなくていいんです。
あえてその場では声をかけなかったりするのも優しさです。

ちょっと話がそれましたが、ここで言いたいのはパートナーや恋人、友達に対しての普段のやり取りなんです。
相手を尊重したり気を使うことは必要ですが、自分勝手な優しさだけは意識して出さないようにしたほうがいいですよね。
分からなければ相手に聞いたっていいと思うんです。
それが壁を作らないことに繋がることでもあるし壁をなくせば相手も壁をなくしてきますから心と心の会話が成り立つものです。
その中で気を使うことを忘れてしまうと自我が出て喧嘩になったりするのですが、そこさえ注意していればより近づけると思います。

相手の気持ちを聞くのが怖い人って少なからずそういう経験をして喧嘩になったり、嫌な思いをしたりしたことがあるのではないかと思います。
それによって自分の殻に閉じこもってしまった人も多いでしょう、勝手に推測して逃げてしまう事もあったでしょう。
気を許すということは自我を出してわがままを言うことではなく、相手には気を使い尊重した上で心を打ち明けるということだと思います。
ありのままの自分を正直に出すという事と自我を出すという事は違いますからそこを履き違えないようにしなければなりません。
まぁ私の場合はあえて自我も出させてそこを叱るという事をしていますが、普通の人には不快になるだけなので出しては駄目です^^;

そういう気持ちを持って真剣に相手と話をすれば相手には通じます、勝手な優しさよりも相手と話して何を求めているのか確認をした上で相手の望むことをしてあげれるようになったほうがお互い幸せに繋がるでしょう。
そういう話を出来ない場合、落ち込んでいる人を励ましたい場合は無難な声かけをして落ち着くのを待つのが優しさだと思います。

あ、ちなみにサプライズとかプレゼントとかは驚かすつもりならそんなことを考えなくてもいいですけどね。
でもたまに「あれには引いた」ということもあるので自分本位のサプライズも考え物かも知れませんね^^;
そんなときは友人数人に相談してみましょう。
もちろんその時でも友人に気を使わせず思ったことをいってもらわないと駄目ですよ。
特に女性は曖昧にするのが好きですからね、それはそれで生きてく手段としては必要ですが…。
本当に微妙なやりとりなので難しいですよね。

このように書きましたが相手を思いやる気持ちや優しさはとても必要な事でそれを持っていることはいいことなんです。
でもその優しさを履き違えてしまうと何もしないほうがましという事もあるんですね。
相手を不快にさせる優しさよりどうせ相手を想うのだったら相手に喜ばれる優しさを出せるようにしていけると180度違ってきます。

相手を本当の意味で思いやるということはそういうことです、無償の愛、そして無償の友情なのですから見返りを求めたり構ってオーラを出すことはそもそも自分のためになってしまうんですね。
思いやりや優しさを表現したい場合は自分本位な考えでないか、相手が本当に望んでいるのかを考えて行動していけたらとても素敵だなと感じます。

しかしこのように文章で表現するととても難しい問題で、その場だとすぐに指摘できるのですけどね、誤解を招かないように読んでくれる事を願っています、力不足ですかね。
とにかく今回話したことは人生の目標です、いつかそのような人間になれたらと私自身そう思っています。

お金と生きること

この不景気の中、みなさん生きる為に頑張って働いていますよね、でも少ない給料で貯蓄も出来ず、将来も不安でただ生き延びるだけのために働いているみたいな人が多いように思います。

今度、国民年金の支給年齢を68歳にするという案がでています、70歳という案もあります。
でも、若い時でさえ就職が難しいのに60歳を越えて68歳まで働くことって出来るのでしょうかね。
働くことが出来たとしても給料なんて今より少ないでしょう。

支給年齢引き上げの理由は少子高齢化と平均寿命が延びて年金の維持が出来ないということですが、いくら平均寿命が延びたからといっても高齢者が生活できるだけの収入で働ける環境がなければ生きていけません。
以前は60歳から支給されてきた年金ですが、それは定年退職の年齢と同じであり理想の形でしたが、今は定年退職の年齢はそのままで支給年齢だけ遅れていますよね。
まあ、一部優良企業では定年退職の年齢を引き下げていますが、それはホンの一部であって普通の企業は60歳定年です。

定年から68歳までの8年間どうやって生きていけばいいのでしょうか?
体もガタがきているので若い時よりも生活費は必要になります、仮に生活費を月15万円と想定した場合、8年間で1440万円が必要です、たった15万円でも8年間にしたら1500万円くらいなんですね。

また、会社員や公務員は国民年金のほかに厚生年金等に加入しているので年金が支給され始めたらそれで生活が成り立つのかもしれませんが、そうでない人は国民年金の月66,000円のみです、貯蓄も出来ない現状でこれはもう絶望と捉えるしかないですね。
更には国民年金さえ払えない人もいるのが現状です、今の生活にいっぱいいっぱいで1ヶ月15,000円ほどの保険料すら払えない人もいるんです。

まぁ、これから十数年後どうなるかは先が見えちゃっていますよね、結局は国がそういう人たちを助けることになり、それに対して税金を使い、保護するのでしょう。
政治家や官僚、それをサポートする人たちって生活が安定しているから国民年金しか加入できない人の生活が分からないと思うんです。
そういう生活を選択したお前らがいけないんだ的な考えだから弱者のことを考えられないんだと思います。
政治家が国民を想っているなんていってもそれは中間層に対してだけですよね、政治の議論やテレビでの討論を見ていても会社員や自営業者を中心に話が進んでいるのが現状ですから。

本当に生活ができない、働けないとなって、これでは死んでしまうというようになったら国はその人に生活保護を認定するでしょう。
生活保護費って国民年金の支給額より多いんですよね、自治体によって違いますが。
でもそれなら国民年金を払わない方がいいってなってしまってもしょうがないです、こんな世の中ですから。
結局は税金で処理をしてしまい、それがまた国民の負担になってしまいます。

なんで今の政治家や官僚達は”今”だけを乗り切ろうとするのでしょうか。
結局は国民が反発し、支持率が落ちるのが怖いだけなんでしょう、だから消費税も上げられない。
国民も政治家以上に愚かですよね、”今”も大事ですが、先の事も考えてそういう政治家を選ばないと。
でも結局政治家は国民のことを想って、国民の言いなりに”今”をしのいでいるだけなのかもしれません。

たしかに生活は苦しいですが、この環境は変わることはありません、景気がよくなるなんて仮想です。
だったら先を考えなくてはならないと思うんです。
今が大変だから消費税増税反対ではなく、将来はもっと大変になるから消費税も含めもう少し身を削る覚悟でないと将来の生活は破綻しか待っていないでしょう。

生活保護費が莫大に増え、不正受給も増え、問題になり、審査を厳しくすると餓死者がでてまた問題になる。
こんなことはもう今から分かりきっていることですよね、今の生活も大切なんですが、それだけではなく、将来の生活のことを政治家も国民も真剣に考えていかないと大変なことになるなって感じます。

こんな日本に嫌気がさして海外に移住しようかなとも思いますが、言葉が通じないのと寂しいってのがあってなかなか決断できません。
お仕置きに憧れを持っている人達を2,30人ほど引き連れて海外に移住だったら面白いかもしれませんね。
賛同者がたくさんいれば本気で考えますよ^^;
一緒に住んで悪い子にはお仕置き付です(笑)
2,3ヶ月くらいの生活は面倒見るのであとは現地で仕事をして生計を立てていきましょうかね^^

お金って生きるのには必要ですが、労力にあった報酬がほしいものですよね。
苦労しても苦労しても給料が少ないではなく、そういう公平性があればみんな貧乏な暮らしはしないですむと思います。
苦労しても給料がない人と楽して大金を得る人の労力としての不平等性が解消できないかなって感じます。

大金は要りません、普通の生活をしたい人は普通の仕事をすればいい。
貧乏でいいなら仕事を減らせばいい。
贅沢をしたければたくさん働けばいい。
そんな選択が出来る公平性のある仕事が理想ですが、これは現実味のない理想ですよね。

ゆとり世代の代償

ゆとり教育とペアで使われたスローガン「ナンバーワンよりオンリーワン」
個性を認めあい、自分を大事にし、空気を読み合い、自我を抑える。
順位というものをつけることを極力避け、競争するということを教えず、嫌なことは無理してやることはないと個人を尊重して教育をされて来た世代ってありますよね。

でもそのように育てられたらどういう大人になるでしょうか。
それでも流されずに自分をしっかり持っている人は問題ないですが、競争心や誇りや自分の意思を持てないままに大人になってしまった場合です。

はっきりいって社会人としては通用しません、社会という競争の世界では通用しません。
通用しないから変に個性を大事にしてあきらめてしまい、ニートやフリーターが蔓延するこにもなっているのでしょう。
学校で教えられてきたことが社会では通用しなかったのですから当たり前のことですね。
社会に出たら激しい競争が待っていて競争力をつけてこなかった人たちが脱落していくのは必然でしょう。

オンリーワンとはその分野のナンバーワンじゃないかという解釈もありますが、ようは世界には自分という存在は一人しかいないという意味で世界という分野でナンバーワンということなんでしょうね。
もちろん人間の性格や個性に順位をつけることはできません。
でも世界で唯一の存在だから競争は無意味ということは間違った解釈でこのスローガンにより弱い人間を育ててしまったゆとり教育は間違っている部分もあるのではないかなって感じていました。

それに、全員が納得のいく生き方なんてありませんよね、会社勤めがいいと思う人、自由業がいいと思う人、働かないで生きていきたい人と様々です。
また自分にとってはなんでもないことでも他人にとっては大きな幸せなことってあります。
不幸なこともそうですね、自分にとっては些細なことでも他人にとっては大問題で精神的に参ってしまうことってあります。
結局そういう人間性に対して、人の価値観に対しては優劣をつけることは出来なくて、そこがオンリーワンなだけなんだと思います。

自分らしく生きるということは自分の幸せを見出すことといってもいいでしょう。
でも自分らしさってなんなんでしょうか。
私も含め、それが分からない人が殆どではないかと思います。
ただ、人間は欲求を満たすことを目的とするというのが根底にあるのだと感じます。
それは欲求が満たされるから幸福感を感じ精神的に安定し心の健康が保たれるからです。

ただ、心の全てが満たされるなんてことは絶対になく、例え今の欲求が全てが満たされたとしても、今度は新たな欲求が出てきてしまうんですね。
今の人たちは大きな幸せ、仮想の幸せを求めすぎで、些細な幸せに気がつかず感謝できていない人が多いと感じます。
だからいつも何か満たされないと不満が出たり不安になったりするのでしょう。

しかし例えば喉が渇いたときに水を飲みますが、それってとてもおいしいですよね。
そういう細かいことに幸せを感じられたらよりたくさんの幸福感を得ることが出来るでしょう。
でもこういう些細な幸せって、自分がどん底の環境に落ちた時にやっと気がつくという人が殆どです。
どん底や絶望を知らない人、失敗を経験していない人は些細な幸せを当たり前だと感じ、それに対して感謝という気持ちを忘れてしまっているのだと思います。

自分の幸福度みたいなものを測る機械があったとしてその順位はどのくらいでしょう。
今世界の人口は70億人くらいです、その中で比較したら日本人はどんなに幸せかが分かるでしょう。
そして今の生活のありがたみを感じることでしょう。
余談ですが、今の中国の人口は14億人くらいいますが、今から150年前くらいの世界の人口と同じくらいだったんですね。
急激な人口増加って恐ろしいですよね、少子化は日本特有の問題であって発展途上国では爆発的な人口増加が起こっているんです。

話を戻します
個性を大事に、オンリーワンというスローガンは間違ってはいないのですが、それを拡大解釈し、競争することをやめてしまったことが間違いであり、それを推奨してきた教育者達に責任があるでしょう。
もちろんそれでも平和に生きれるでしょうが、今の時代は世界的にも競争の社会なので問題なんですね。

更に不幸なことにバブル崩壊後今に至って不景気が続いています、ゆとり教育と負のスパイラルで若者の一部は努力しても競争しても無駄という意識になっているひとが多いですよね。
今はアメリカンドリームという言葉は死語的になっていますが、日本でも昔は頑張れば報酬として返ってきていました。
しかし、今はどんなに頑張っても報酬としては返ってこない傾向にもあります。
そして一部の成功者だけが巨万の富を得て裕福な暮らしをしている事実もあります。

昔のバブル期はある程度平等に報酬が上がっていました、会社員であれば給料が上がっていき、さらに頑張ればそれ相応の報酬がついてきました。
しかし今はサービス残業は当たり前、会社の業績が落ち、そのつけを部下に八つ当たりをし、給料も下がり、悪循環ですよね。
学生生活で競争させ、順位をつけさせることの弊害も確かにあります、ただこういう情勢だからこそ競争力をつけていくのも大切な事だと思います。

なんでも人任せ、嫌なことからは逃げ、他人の責任にし、自分を正当化する。
目標をもてないで何のために生きているのかさえもわからない。
命があるから、自分から命を絶てないからなんとなく生きているという若者も増えているようです。

でも、働いても働いてもそれは生活費で消えていき、将来の貯蓄が出来ない以上、結婚はもちろん、子供を持つのも不安になるでしょう。
そうなると一生貯蓄できずに働くだけの生活、そして老後は絶望的です。

年金も不安定で、もらえるかどうかが分からないような議論もされていて、もらえたとしても生活が出来ない額。
もうこれではどうしようもありませんね。
希望が持てず無気力になってしまうのは必然かもしれません、そう思います。

不景気はある程度しょうがありませんが、それを何とかしようとするのが政治です、また、このようなゆとり教育をしてきたのも政治です。
せめて政治の責任で老後の不安をなくしてほしいものです。
そうすればいろいろなことにチャレンジが出来るし何かしらの希望も持てるはずです。

老後が保障されていれば貯蓄なんてする必要がなく、自分がやりたいことに思い切ってチャレンジできます。
例え失敗しても保障があるようなものですからね。
様々な能力を持った日本人がいるのに、その人たちの一部は舞台に立てず眠っている状態です。
でも老後の生活が全て保障されるなら、消費税が例え30%でも私は安いと感じます。

今の若者に希望を持たすような政治、そして希望のある日本になっていければ必ずいい方向に変わっていくと思います。
希望があるから生きがいがあるんですよね、絶望に向けて生きていくことの辛さは耐えられません。
今は絶望の中で生きている人間がとても多いです、それは金銭的にも精神的にもです。

とりあえず老後の金銭面だけでも楽になれば精神的辛さの一部分が解消されるでしょう。
少しでも精神的に安定すれば心に余裕が出来てきます、その中で人の痛みを感じられるような人間を育て、人間味のある暖かい世の中にしていけたら理想だと感じます。
まぁ口でいうのは簡単ですけど、実行するのは大変な事ですからね^^;

しかしぐだぐだとくだらない議論ばかりしている政治家にはお仕置きをしたいくらいです(笑)

してはいけないことは何故してはいけないのか?

してはいけないことは何故してはいけないのでしょうか?
法律だから?マナーだから?常識だから?
では何故それを守らないといけないのでしょうか?
人間が勝手に決めてきたことを何故それに従い生きているのでしょうか?

そしてそれに従わなければ場合によっては当局に拘束され、最悪死刑にまで処せられます。
おかしいと思うのは同じ事柄でも国によっては違法なものと合法なものがありますよね。
人としてやってはいけないことの定義が国によって違う、地域によって違う、町によって違うって少しおかしいと思いませんか?

まあ、国民性というものがあるのでしょうがない部分もありますが、日を追うごとにどんどんと人間が縛られてきています。
日本でも条例はその地域によって違い、その地域だけやってはいけないことがあります、こうなってくるとただ単に個人的な価値観を押し付けているだけのことのようにも思えます。
また死刑がある国とない国がありますよね、これは究極ですが、どの地域で犯罪をしたかによって運命が変わってしまうなんてあっていいものでしょうか。

そもそも法律やマナーというものは自分自身を守るために作られてきたものなんですよね。
道徳観でいえば宗教の教えもそうです。
してはいけないこととは、それをしてしまったら他人に迷惑がかかるから、傷つく人が出るからということが前提です。

その中でも他人に怪我を負わしたり大きな損害を与えることをしたらその罪は大きくなります。
強盗、強姦、殺人等の凶悪事件はなくなることはありませんが、これらが悪とされているのはみんなが安心して生活できなくなるからなんですよね。
そんな人がたくさんいたら精神健康上にも悪いことですから、人間社会で生活するうえで法律は必要なんです。
他人に迷惑がかかる行為の一部を犯罪としていますが、結局は自分自身を守るためなんです。

でもこれって地球を支配している人間だからできることで、他の動物達からしたら人間は残虐で鬼畜だとしか思わないでしょうね。
命は平等なはずなのに動物や植物の命を絶つことに対してはそれ相応の正当性という詭弁がついて回ります。
とりあえず人間だけは子孫を残し、生き延びればそれでいい的な発想ですよね。
人が動物を殺した場合、動物が人を殺した場合、全く見方が違いますよね、罪悪と正義の区別も、全て人間が決めています。
ただ、それを否定するわけではなく、それによって幸福な人生を送れているというのは事実です。
しかし罪悪感を持とうとしないというか正当化しているところが少し引っかかります。

だいぶ話がそれました(笑)

してはいけないこと。
これは人間が快適に生活を送るためにみんなが守っていかなければならないことなんですよね。
それに反すると嫌な思いをする人間が出てくる、傷つく人間が出てくる、ということは自分もそうなることにつながるんです。
そういうことがないように、幸せになる人を増やすために決められたこと。
法律、道徳、マナーというのはそういうところからきているんだと思います。

何故してはいけないことをしちゃダメなのかは、他人を不快な気持ちをさせてしまうとその人はもちろん自分も不快な気持ちになり、他人も自分も傷ついてしまうことにつながるからだと私は解釈しています。
そして他人を傷つける度合いによって法律という枠で裁かれ、それを抑止しているのではないでしょうか。

犯罪まで行かずもっと軽いことでいうと、
道徳的には、例えば朝の挨拶で「おはよう!」って元気に声をかけられたら嬉しいですよね。
仮に自分が声をかけたとして、でも相手が無言だと悲しいし気分が悪いですよね。
「おはよう!」ていう挨拶一つでお互い今日一日いい気分で過ごせる気がしますよね。

これは法律でも義務ではないから嬉しいんです、そして偽善ではなく本心ですることが大事です。
そういう気持ちを持ってみんなが接していればもっと快適な日常を送れると思います。
すぐに「相手が挨拶しないから私もしない」
となりますが、そうではなく自分からするということが大事です。

そういう考えの人は悪いことしても「自分の方がまだましだからいい」とか「誰誰もしているからいい」
とか他人と比較して変な正当性を主張する傾向にあります。
でも自分は自分、他人は関係なく自分が周りに幸福を与えるという考えでないとみんなが幸せになることはありません。
これは法律ではなく決まりごとではありませんが、法律を守る以前にそういう気持ちになれたらそもそも細かい法律なんて必要ないんですけどね。

それと法律的にはしてはいけないことって毎日毎日増えているんですよね、どんどん法律ができていくということはどんどんしてはいけないことが増えているってことです。
現代は幸福すぎるので他の何かを欲するのでしょうか?
とても他人に敏感になり、気を使い、どんどんと住みにくい世の中になっていく気がします。

法律にがんじがらめになり、他人の目を気にしすぎ、精神的に疲れてしまいそうです。
偽善で取り繕って本音で話ができる人間が少なくなっていくような気もします。
人間は機械ではありません、心と心でぶつかってそれが人間です。
本音を出したら嫌われるとか関わったら面倒くさいことになるとか、そういう雑念がいっぱいでコミュニケーションをとる力がなくなってきているようにも思えます。

だから自分に自信がなく、誰かに見てほしくて、でも他人には無関心で甘えた考え。
自分の理想と現実のギャップがありすぎて絶えず不安を抱えている若者が多いのではないでしょうか。
これも人間が機械のようになってしまっているので愛情を与えられず、愛情を注がれていない人間は理想だけが膨らみ愛情に飢えてしまうのでしょう。
法律で縛られてくると人間らしさがどんどん消えていくような気がします。

しかし幸福な世の中になるにつれて歪んだ犯罪も増えてくるのでそれはしょうがないことなのでしょう。
他人を不快にすることはしてはいけないことなんです、そのことを個々の心の中においておけば法律だらけのなかに生きる機械人間にはならないでいられるような気がします。

今はネット時代、物を買うにも取引するにも、銀行や証券も、そしてマネーゲームも全て機械です。
どんどんと心をなくしていくような気がしませんか。
いけないことははっきりといけないといってあげられる世の中は必要です。
そういうところでも心の温かみを感じることができるでしょう。

いけないよといっても屁理屈ばかりいって聞く耳持たない人はたくさんいます、
「何でだめなの?」と聞かれたら、いろいろと説明はしてみるものの、結局は「他人に迷惑がかかる、そして自分もされたらいやなことだから」
という言葉でしか説明ができませんよね。

これ以上説明できない私も説得力がないのでしょうが、そうなったらお仕置きで分かってもうらしかありません。
でも、その通りなんですよね、とにかく他人が不快になるような行為だからしてはいけないんです。
私は法律の枠に因われることなく、他人に対して少しでも不快な気分にさせたのならば、それはお仕置きの対象になるんです。

「そんなことも理解できない悪い子はお尻ペンだよ!」と^^;

お仕置きをすれば嫌でも「ごめんなさい、わかったよ」といえるでしょう。
その返事がお仕置き逃れの口だけでもしょうがないですが、そうであればお仕置きは理解できるまで続くだけです、お尻のために理解するでしょうね(笑)

他人を不快にさせて傷つけてしまったら必ず自分に返ってきます。
自分が傷つくことになります、もっと自分を大切に、自分のためにも他人を大切にしてあげれたらいいですね^^

信頼関係

信頼関係で悩んでいる人、多いですよね。
家族は信頼できるが、他人とは信頼関係を築けない。
逆に他人は信頼できるが家族とは信頼関係を築けない。
更には家族も他人も全てに対して信頼関係を築けない。
ま、どれにしても精神的に辛いのは確かです、自分の心を吐き出せないって辛いものです。

他人との信頼関係が築けず、家族に依存してしまう人は確かに心に傷があり闇を抱えていますが、唯一家族は信頼できるということであれば、まだましなのかもしれません。
ただ通常は生まれてきてから一緒にいる家族と信頼関係を結びますが、それが出来ない人はどうなのでしょう?
他人や友達を信頼し、そっちに居場所を求めれば問題ないように思えますが、それが出来ない人もいます。
家族と信頼関係を結べない人たちはそれで精神的に参り、他人とも信頼関係を築きにくくなることもあるんです。

自分のこと全てを他人に話しすることは勇気のいることです。
それは、その結果次第では嫌われて自分の居場所がなくなってしまうという不安に陥ることに繋がるからです。
そんな時は子供のころの無邪気な自分に戻りたいと思うこともありますが、そんなことは妄想の世界でしかありません。

家族の裏切りや、誰も認めてくれない、誰も理解してくれないという心の葛藤、
自分は誰にも必要とされていないと感じる絶望感。
こんなことを毎日毎日考えていたら誰でも精神的におかしくなります。
そしてこういうデリケートな話はなかなか他人には出来ません。
そう日本は特にそういうことを話すとすぐに変な人扱いしてしまうからです。

好奇な目で見られ、あなたは精神的に異常だと罵られ仲間はずれにされることもあるでしょう。
偽善者ぶった人には同情され、普通に幸せに暮らしていて傷みも分からない人に限って能天気にアドバイスをします。
こんな人ばかりの世の中だから余計自分の殻に閉じこもってしまうんですよね。
みんなと足並みをそろえて生活していくにはそういった苦しい部分を隠していくしか方法がないのですが、でもそれでは自分の心が壊れてしまいます。
肉体は、心が壊れても消滅したくても生きています、一瞬のうちに消滅できるのであればどんなに幸せかと考えてしまうこともあるでしょう。

こんな毎日では何かに依存していくのは当たり前のことでそれは人間の本能でもあると思います。
病院にいったとしてもそれは他人には隠していなければならない。
カウンセラーも話を聞いてくれますが、結局は仕事であって本当の意味で向き合ってくれていないのかもしれません、それは金銭という見返りがあるからです。

しかしまぁ一つの足がかりとなるからカウンセリング的な場所があるのですが、カウンセラーは一生その人たちと信頼関係を結ぶことはしませんよね、結局仕事ですしお金で動いているのですから。
心を開いて楽になり、精神的に落ち着いたとしても自分の居場所がなければまた戻ります。
本当に難しい厄介な問題だと思います。

しかし実際信頼関係を築けている人ってどのくらいいるんでしょうね?
信頼関係=何でも話せる相手という定義で考えます。
こういう究極な信頼関係ってあまりないように思います。
自分の駄目なところ、卑しいところ、汚いところ、腹黒いところ、性癖まで全てさらけ出して話せる相手なんてそうはいないでしょう。
私はいません。

じゃあ、信頼関係って何なんでしょうかね。
多分、適当なものだと思います。
「お前のこと信頼しているよ」の言葉は心の声に直すと
「お前のこと90%信頼しているよ」なんじゃないかなと私は感じます。
だから人によっては信頼度は変わり20%もいれば50%もいるでしょう。
ま、社交辞令みたいなもので、そんな適当な言葉なんだと思います。

信頼100%であれば嘘をつく必要はないはずです、自分のことはすべて話せるはずです。
しかし人は傷つくことを恐れ、バリアをはり、最小限のダメージになるように、嫌われないように、引かれないように無意識に調節するものです。
100%信頼して裏切られたときに心は壊れてしまいますからね、そういうことがないように。

逆に言えば、人間関係で心に深い傷を抱えている人は純粋で心から人を信頼できる純真無垢な人間なんだと思います。
信頼できるではないですね、信頼できたというべきでした。
しかしその結果深く傷ついてしまい心に傷を負ってしまう、なんという酷く理不尽なことでしょうか。

でも私はそういう人がうらやましいです、そういう人になりたいのではないんですけどね。
なんでなりたくないかというと、心無い人間に心を壊されてしまい精神が破綻するという恐怖からです。
そこからは未知の領域で、まさに生き地獄ですよね。
しかしそういう純粋な人たちに触れ合うことで私の心も浄化されてくような気がするんです。

100%の信頼関係って理想です、それを達成するためにその部分にだけ非日常の世界があってもいいと思うんです。
逆にその非日常の中でなら100%の信頼関係は十分可能だと思います。
恋愛感情ではなく、それを超越したところにある信頼関係は無敵だと思います。

自分の苦しさやどうしようもない思いを吐き出し、一人の人間として客観的に見てもらいたくありませんか?
私はそういう世界を作っていきたいと思っています。
絶対に裏切らない、絶対に引かない、絶対に見放さない、それが私です、相手が聞く耳を持っている限りは。
よくこういうところが変わっているといわれますが、私にとってはこれはしたいことで、これが日常なんですよね。

自分の居場所

自分の居場所ってありますか?

と聞かれて、考え込む人ってそれなりの居場所はあるものなんですよね。
でも即答で「ない」と答える人はどれだけ苦しんでいるのでしょう。

器用だったりズル賢かったりする人って居場所はいくつもあるものです、ここが駄目になっても他にいく、そうすることによって自己防御をし傷つくことや孤独になることを避けているんですよね。
これって無意識に作り上げていく人が多く、また傷ついたことの知恵として意識して作っていく人もいます。
でも問題なのは、不器用な生き方しか出来ない人間もいて、自分の居場所を求めて彷徨い、日々何かと戦いながらそして苦しみながら生きている人もたくさんいるということです。

器用な人にとって見れば居場所なんていくらでも作れるんだからとアドバイスしたがりますが、それはあなただから出来ることであって、不器用な人には真似できないことなんですよね。
しかもそれが普通のことだと言い負かし、それができなくて落ち込んでいる人が駄目なんだと責め立てます。

日本人は特に足並みがそろっていないと、そいつは普通ではない、変だと偏見を持ち責めたがります。
日本人って島国ということもあり特にそういう人種なんですよね。
アメリカのように様々な人種を受け入れてきた国は様々な人間の様々な意識や行動をそれぞれの個性として尊重しています。
ま、国民性というものなのでこれは変えることは難しいのですが。

何が言いたいのかというと、そういう不器用な生き方しか出来ないような人もそれを一つの個性として、普通として捉えられないのかな?ということです。
誹謗中傷したり、同情したり、変に気を使ったりということをしないで普通にです。

私は逆にそういう心の闇を抱えた人に見える切なさがとても愛おしく感じます、変な言い方ですが魅力みたいなものです。
本来そういう不器用な人達の姿が人間の本質なのかもしれません、そこから人間はずる賢く様々な自分を守る知恵を得て今の普通があるのかもしれません。
そうだとしたら不器用な人たちはとても純粋で綺麗だと思いませんか?宝石でいうと原石でしょうか。

不器用な人たちは、自分は本当の意味で生きているのか?と疑問に思ったり、存在している証や生きている実感に疑問を持ったり、このまま消えていなくなりたいとまで思ってしまったり、そういう不安から様々な形で悩んだりしてしまいます。
人それぞれ心に抱えている闇は違うので解決策もそれぞれで難しいし、結局は本人が器用にならないと無理なのかなとも思います。

人は誰でも認めてほしいと思い、他人がいるから生きているのだと思います、しかし他人がいて自分が否定されれば自分の存在意義がないと考えてしまいがちです。
といっても世界には70億人いるわけで、広い視野で見るとその70億人全てが一人の人間を否定するなんてありえません。
しかし未成年の場合は特にですが、家族、近所、学校関係者の存在がもう全世界と同じなんですね。
社会に出ればそんな小さな世界と思いますが、その時は視野が狭いので考えることも出来ないわけです。
だからどれだけ苦しいかは想像くらいではきます・・・。

でもそうしたときに自分の居場所が確保できればと思うんです。
居場所としては人の温もりが一番です。
恋愛に求める人も多いし、親や友人に救われている人もいるでしょうし、人間の温もり以上に満たされる居場所はないでしょう。
しかし、居場所のすべてを恋愛に求めてしまうのは非常に危険です。
悲しいお話ですが、それはその人と一生幸せでいる確率は残念ながらかなり低いからです。

恋愛以外では親友を作ることが一番いいのですが、親友ってなかなかいるものではないですよね。
いるといえる人はうらやましいです、なんでも打ち明けられる友達はなかなかいません。
私の場合、友達はたくさんいても全てを打ち明けられる親友はいません、本心はほしいのですが、無理なような気がします。
親に関してはいずれ自立をしなければならないし、長い目で見ると居場所に適してはないかもしれません。

それ意外の居場所としては非日常を作るということもあります。
特別な関係であり、秘密を共有するような、ここのブログでいうとお仕置きの関係で人生を見つめてもらう的な。
心の中を少しずつ開いていき、信頼関係を築いていき、更に心の奥まで開いていくみたいな。
その方が自分を出しやすいこともありますし、そうなったとしたらお仕置きなんて必ずしも必要ありません。
そこにお仕置きが無くて居場所にできる、最終的にはそういう場所を作り上げていきたいと考えています。

まぁ、人を居場所にするのが困難な方は人ではない空間に求めるということもできます。
しかしそれは温もりというものがないので完全ではないんですけどね。
例えば、カラオケ、公園、屋上、お風呂、本屋、自分のブログ、趣味等、人間を居場所として確立できない環境であればそういう何かで確保できると少しは生きやすくなるのではないでしょうか。

今の世の中、周りの人たちは輝いて見えますがそれは幻想の部分が大きいと思います。
自分で決断できない人、考えがまとまらない人、寂しくて孤立してしまっている人、いろいろな悩みを抱えている人、欲求に振り回されている人、お仕置なんてなくてもそういう人の最終的な居場所でありたいと思います。

スパ的な毎日 お仕置きブログ 精神と心の部屋

カレンダー
01 | 2021/02 | 03
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 - - - - - -
カテゴリ
月別アーカイブ
プロフィール

京介(きょうすけ)

Author:京介(きょうすけ)
初めまして、京介(きょうすけ)といいます。

スパといわれている世界ではいわゆるディシプリン派の”カー”という存在らしいです。
そしてお説教やお仕置きは私の日常です。
私の普段の言動や行動がスパでいう”カー”というものに似ているだけなので、スパという”作られた世界”の住人である意識は全くないんです。
それくらい日常的にお説教やお仕置きをしているってことです(笑)

お説教や相手との対話については私の中では”心の安定でありカウンセリング的な心のケア”と認識しており、お仕置きの中で一番重要視していることです。
相手の理由や言い分をしっかりと聞いた上で、客観的に「何故直さなければならないか」という説明をし、納得をさせる事がお説教と位置づけており、お仕置き後のアフターフォローとしての対話を含め、イメージ的にはカウンセリングのようなものです。

なので私はこじつけの理由ではなくリアルな理由でしかお説教やお仕置きはしません。
そしてお説教とお仕置きはセットでなければ意味はなく、更にお仕置き後のアフターケアがないと成立しません。
私のお仕置き基準は「他人を不快にする行為、約束を破る行為」について特に厳しく接しています。

お仕置きでの関係性は親と子供的なものです、それをコンセプトに全てが成り立っています。
つまり相手とはある意味対等な立場であり、私が命令口調で話したりすることもありません。
また、教師と生徒的のような上下関係の立場から物事を矯正するということも好みません。

このような上下関係のあるお仕置きは恐怖心により支配しているものでもあり、自尊心を傷つける場合もあるので親子間での愛情のあるお仕置きとは全く別物と認識しています。
こういう考えなので親子的でもあり友人的な立場という立ち位置が一番しっくりきます。

ここに至るまで、過去私はSMという世界を体験しました、SMの世界といったら大げさなのですが、最初はS的な欲求を満たすために足を踏み入れたのですが、どんどんと精神的な心の部分を追求するようになっていきました。
そうしているうちに”人間の心や本質”をもっと追求したくなり、そうなるとSMに何かしらの違和感もでてきて、その違和感を解消しようと模索した結果、スパといわれている今この場所にたどり着いたのです。

その違和感を簡単にいうと、SMは性的なお仕置きや理不尽なお仕置きがまかり通っていたり、性欲を満たすのに貪欲すぎるところです。
もちろんSM的な事は面白みはあるので、性欲のはけ口としてはいいのですが、性欲以外の部分を満たすためにはちょっと物足りなかったんです。

そんな中、キーさんと関りを持つことで心地よさを感じ、私の求めていた精神的な世界を見つけたって感じなんですね。
スパの”カー”からSMの””に移行する人ってたくさんいますが、私はその逆バージョンみたいな感じなんですね(笑)
SMの精神的な部分の究極を追求した結果、スパといわれている世界にたどり着いたので、過去の体験があるからこそ今の自分があるんだと思っています。

このブログを書き始めることになったきっかけですが、それはお仕置きに興味がある若い女性が結構いる事を知ったからです。
真面目に苦しんでいる人達を私の言葉により一人でも救ってあげれたらなという気持ちで書いていこうと思いました。
そういう人たちと出会い、関わっていきたいと思ってブログを書こうとなったんです^^

こういう世界に入り込んでしまう人は、幼少期に目撃してしまったお仕置きシーンがいつの間にか脳裏に焼き付いてしまい、いけないと思っても頭から離れないケースや、親子関係の確執や養育環境であったりと、何かしらのきっかけがあるものです。
みなさんは揃ってお仕置きの事を考えてはいけないと頭から消そうとしますが、脳裏に焼き付いてしまったキー気質は消し去ることはできません。

ではどうしたらいいのか。
どうにもならない欲求をなんとかしたいなら、経験して欲求を薄めることに限ります、勇気をもって経験することで欲求は薄まり、お仕置きのことばかり考えてしまって支障が出ていた日常生活も回るようになるものです。
欲求を解消する方法は欲求を満たすしかありません。

ここでは、悩みや闇を抱えている人はもちろん、欲求や思いを吐き出し、このブログを通じて自分の居場所を見つけ、少しでも心の安らぎを感じて欲しいと思っています。
そういった精神的な部分を私は一番大切にしています。

お仕置きに憧れを持つことは、叱られる愛情や甘える事を求めているからともいえます。
ドキドキしたりするのは、自分の求めていた愛情が受けられる、甘えられるという妄想で、それが無意識に反応してしまうだけです。
全ては無意識で起こる深層心理下での心の動きなんですね。

そしてこんな風に思える人は決して叩かれたいだけではないはずです。
なのでこの家庭的なお仕置きに対してSMのような概念は捨てて、客観的に自己を見つめる為に必要な、ある意味健全な事と解釈しましょう。
他人には言えなくても、ここはみなさんが本当の自分を出せる心の解放の場であり居場所でもあります、そして人生において成長の場と捉えれば必要な場所にも変わってきます。
なのでスパという概念も捨てて、客観的に自己を見つめるためにお仕置きに関わる、という意識になることがとても大切なことだと思います。

こんな感じの私ですが、様々な人達を見てきていますのでどんな内容でも私が引いてしまうことはありません。
みなさんそこが心配なようですが、世の中の裏も表も悪い人もいい人もいろいろと見てきましたし、そもそも人間は弱い生き物なので、人をだましてしまったり殺めてしまったとしてもそれを聞いてドン引きするようなことはありません。
人としてどうなの?ということだとしてもそれを話してくれたことに私は親身さを感じてしまう性格なんです。

また、私は概念や雑念に捉われません、客観的に受け止めますので共感は強くしますが、同情のようなことは基本的にすることはありません。
なので悩みや相談がありましたら気軽にしてください。
どのような立場の方でも個人情報を漏らすことは決してありませんのでそこは安心してください。

自分の満たされない思い、満たされたい思いをお仕置きを通じて体験してみましょう。
体験は若ければ若いほどいいです、歳を重ねると欲求を薄めていくことは難しくなり、どちらにしても卒業しなければならない必要性が出てきます、いつまでもパートナーがいるわけではありませんからそうなると心が苦しくなるだけですからね。
若いうちに体験しておくと卒業もしやすいですからそういう意味でも急ぎましょう^^

何度も言いますが、お仕置き欲求をなんとかするにはお仕置きを経験することです。
欲求が消えることはありませんが、薄めることは可能です、ネットでの出会いとなりますが、約束事はしっかりと守っていますので、勇気をもって連絡してみてください。

京介

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク
QRコード
QR
最新記事
検索フォーム
RSSリンクの表示